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亜希が忘れたのが、この春の出来事だけなら良かった。
それなら、こんな風に躊躇うことなどなく、受け容れられたに違いない。
――しかし。
久保はゆっくりと目を開ける。
横に座っている亜希は、潤んだ瞳を見られたくなかったのか、すくっと席を立った。
「ねえ、久保さん。……久保さんは、どこのクラス?」
久保は亜希の姿を目で追いながら、静かに答える。
「……今は、ここだよ。」
「――ここ?」
驚いたのか、亜希が目を見張る。
「ああ……。ちなみに、そこの席は悪戯坊主の『小早川』って奴が座ってる。」
「悪戯坊主?」
「そうだよ、……ちょうど内田みたいな奴だな。」
そう言うと久保も苦笑を洩らしながら、カタンと音をさせて立ち上がった。
「授業中に逃げ出すわ、ドアを押さえつけてカウンセラー室に閉じ込めるわ……。」
「カウンセラー室って?」
亜希は耳慣れない部屋の名前に首を傾げる。
「――君の部屋。新校舎にあるんだ。」
「……私の部屋?」
「行ってみるか?」
久保が訊ねると亜希は少し不安そうな顔をしたが、深呼吸をひとつするとこくんと頷いた。
――淡い期待。
――何でも構わない。
ほんの少しのきっかけで構わない。
――彼を思い出したい。
亜希は教室を出ていく久保の後ろ姿を見つめる。
そして、病院で目覚めた日の事を思い返した。
『……亜希、どこか二人で静かに暮らそう? 俺は教員を辞めて、転職したって構わないんだ。――な?』
請い願うような久保の言葉が、何日も日が経っているのに耳を離れてくれない。
――甘く、切なげな声。
もし、自分が彼を覚えていたならば、彼に何と声を掛けたのだろう。
はい、だろうか。
それとも、いいえ、だろうか。
「おーい、まだか?」
ぼんやりと惚けている合間に、久保は廊下に出ている。
「今、行く。」
そして、亜希も机と机の間を縫うようにして移動し始める。
「暑くてぼうっとしたみたい。」
そして、心配そうな顔をする久保に笑ってみせる。
すると、久保もにっと笑い返した。
「ちょっと待ってて。」
「え……?」
不意にドアの前から久保の姿が消える。
亜希は少し急ぎ足で教室の外へと出た。
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