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(あれ、いない……。)
ほんの僅かな時間で久保の姿が消えている。
亜希は辺りをキョロキョロと見渡した。
「……久保さん?」
声を掛けても返事は無い。
前を見ても、後ろを見ても、誰もいない。
長い廊下に独りきり。
――トクン。
一瞬、周りの景色が揺らぐ。
(何、これ……。)
スイッチが切れたみたいに動けなくなる。
それとともに「自分」の存在も希薄になっていく。
周りの景色も見えているし、音も聞こえているのに何の反応も出来ない。
――怖い。
糸の切れてしまった人形のように、頭では体を動かそうとするのに、指先一つを動かす事が出来ず、声も出せない。
ただ無性に「焦り」と「恐怖」が込み上げてくる。
――苦しい。
心細さに、心がポキリと音を立てて折れてしまいそうだ。
やがて呼吸の仕方さえ分からなくなって、呼吸が浅くなり、カタカタと体が震えてくる。
――誰か、助けて。
それを救ったのは、久保の優しい声の記憶だった。
『……ゆっくり深呼吸をして。』
病室で抱き締めてくれた時の言葉が、不意に頭の中に過る。
その途端、するりと呪縛が解ける。
そして、ゆっくりと深呼吸を試みる。
亜希はふらりとふらつくと、壁に手をついて体を支えた。
『もう、大丈夫だ。』
そのまま、心許ない足取りで壁伝いに進む。
そして吸い込まれるようにして、亜希は国語科準備室のドアの前に立った。
50センチ四方くらいの窓ガラスの向こうには、書類を片付けている久保の姿が見える。
――会いたかった。
この湧き起こる感情は何とも形容し難い。
胸がツキン、ツキンと鈍く痛む。
ただ無性にあの背中に飛び付きたい。
亜希はドアの取っ手に手を掛けると、引き戸をそっと横に引く。
中では久保がガサゴソと書類の山を動かしていた。
「悪い、散らかってて……。」
物音に気が付いた久保が手を休める事無く答える。
亜希は二、三歩、部屋の中に進む。
しかし、再び、体がぴたりと動かなくなってしまった。
――彼に惹かれては、いけない。
頭の中で何かが警鐘を鳴らす。
「どうした……?」
手にジュースの缶を持ったまま、亜希の顔色を見るなり、さっと顔色を変えて近付いてくる。
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