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彼に会えば、悪い魔法が解けて何もかも思い出せるような気がしていた。
だからこそ、彼に会いたかったのに。
亜希は久保の背中にそっと手を回すと、目を瞑り、甘えるようにその胸に顔を埋める。
(久保さんは『今の私』を待っているんじゃない……。この人は『前の私』を待ってるんだ……。)
自分が忘れてしまった時間こそが、彼にとっては重要だと気付かされる。
なぜ自分は彼を忘れてしまったのだろう。
何度考えてみても、皆目、見当さえ付かない。
ただ自分よりも「前の自分」を欲している久保を感じてしまったら、自然と涙が溢れてきた。
――思い出したい。
それが今の自分にとって辛い事であったとしても。
――彼の心を慰めるのなら。
一方、久保は亜希をきつく抱き締めながら、心の乱れをやっとの思いで抑え込んだ。
熱い吐息が口から漏れる。
自分の胸に顔を埋めている亜希の表情は見えない。
久保は自分に言い聞かせるように、ぼそぼそと呟いた。
「……君は俺に囚われなくて良いんだ。」
その声に胸苦しくなる。
「俺は君が幸せになってくれれば、それで十分なんだ。」
もの悲しい声色に、心が千々に引き裂かれてしまいそうになる。
亜希は肩を震わせると、縋るように久保にしがみ付いた。
顔を埋めたままで、首を横に振る。
「そんなの、無理……。」
「進藤さん……。」
久保の困ったような声が聞こえてきても、駄々っ子みたいに首を振り続ける。
「……私が幸せになってくれれば十分だなんて、私が無理。」
「――え?」
訝しげに訊ねてくる声がすぐ傍に聞こえる。
「久保さんも、幸せにならなきゃダメだよ……。」
そうでなければ本当の意味で「幸せ」になんてなれない。
「……絶対にダメ。」
今の自分では、何一つ久保の事を思い出せない。
――だけど。
これだけは、はっきりしている。
「……久保さんが幸せになってくれなきゃ、私は幸せになれないよ?」
その言葉に久保が生唾を飲み込む気配がする。
「『君は俺に囚われなくて良い』だなんて言わないで。」
久保の体温に甘えるように、しなだれかかる。
「それにね、私、『感じる』の。」
「感じる?」
「うん、覚えてなくてもね、あなたは『大切なヒト』だって。」
「記憶」にはなくても、「心」が覚えている。
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