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「……私ね、久保さんに『進藤さん』とか『君』とか言われると、その度に違和感を覚えるの。」
絵柄は近しいのに、うまくパズルのピースが組み合わないような感覚。
理屈ではなく、ただ「違う」と感じる。
亜希は抱き付いたまま、上目遣いに久保を見つめた。
「――ねえ、最初に会った時みたいに呼んで?」
「最初……?」
「うん。病院で目が覚めた時みたいに『亜希』って。」
「それは……。」
久保は口籠もる。
目の前の彼女を「亜希」と呼んでしまったら、自分の知る「亜希」が二度と戻ってきてくれないような心地になる。
「――ダメ?」
小さく首を傾げる亜希の眼差しに、久保は答えに窮して黙り込んだ。
(「ダメ」とは言えないはずなのに……。)
だけど、喉が引っ掛かって、声が出て来てくれない。
(彼女は「亜希」とは違う……。)
目の前の彼女には、自分以外を選ぶ権利がある。
高校時代みたいに「進藤」と呼ぶ事や、記憶をなくす前のように「亜希」と呼ぶ事は何となく憚られる。
久保はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと重く閉ざしていた口を利いた。
「『亜希ちゃん』なら、どうかな?」
「――亜希ちゃん?」
「そう。『進藤さん』は違和感があるんだろう?」
「『亜希ちゃん』って、なんだか子供っぽいんですけど……?」
ちょっと口を尖らして、文句を付ける。
「じゃあ、違和感があっても『進藤さん』な。」
「……むう。分かりましたあ、『亜希ちゃん』でいいですうッ!」
その表情は高校時代の亜希と同じだ。
久保はふと表情を弛ませた。
「そろそろ、次に行こう。」
久保はそっと亜希を引き離すと、長椅子から立ち上がる。
「――うん。」
亜希は我に返ってこくんと頷くと、そのまま気恥ずかしそうに俯いた。
(い、今さら恥ずかしくなってきた……。)
ちらりと見てみても、久保はあまり気にしていないのか、空き缶をごみ箱へと片付けて、戸締まりの準備をしている。
――広い背中。
不意にその感触を思い出す。
(……思ったより、筋肉質だった。)
「国語科」と聞いて、何となくスポーツは得意じゃないイメージをしたのに。
(胸板も厚くて……。)
意外とスポーツマンなのかもしれない。
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