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「久保さんでも、怖い?」 「……ああ。怖いな。」  その言葉を聞くと、亜希は腕を伸ばして、躊躇いがちにティーシャツの裾を掴んだ。  久保が振り返る。 「――どうした?」  伝えたい事は山ほどあるのに、声にならない。  上目遣いに見つめるのが精一杯だ。  久保はしばらく亜希の返答を待ったが、うまく言葉を紡げないでいる様子に、ふっと笑みを零した。  ――同じ踊り場なのに。  皐月と一緒にいた事で傷付いた表情を見せた亜希は、もういない。  今、自分の裾を引くのは、あどけなさの残る蕾の頃の亜希だ。 「『犬君(イヌキ)が雀の子を逃がしつる』って言い出しそう……。」 「へ? それって、どんな意味?」  怪訝そうな亜希の声に、久保はククッと喉を鳴らす。  彼女は「恋の駆け引き」なんて知らない。  内田は「亜希が会いたがっている」と言っていたが、きっとそれは自分が亜希に抱くようなものでは無いだろう。 「『犬君ちゃんが雀の子を逃がしちゃった!』って意味。『源氏物語』で、若紫の初登場のシーンは、伏籠(フセゴ)に閉じ込めて置いた雀の子を逃がしたって泣きながら現れるんだよ。」 「……ちょっと、それって、私が子供っぽいって言ってるの?」 「――あれ、そんな風に聞こえた?」  悪戯めいた顔をする久保の様子に、ぷくっと頬を膨らませて亜希は外方を向く。 「……他にどんな風に聞こえるのよ。」 「誉め言葉だよ。彼女はその愛くるしさで、源氏を一目で虜にしたんだから。」  くすくすと笑う久保と肩を並べて、亜希は訳が分からないといった表情をした。 「……本当、古典は暗号文みたいで分かんない。」  古語文法を勉強して、重要単語の意味を読み取るのに精一杯で、作品全体を「面白い」とか「読み飽きない」だなんて、到底、考え付かない。 「昔も、全く同じ事を言ってたよ。受験勉強を見てくれって来ては、毎回『古典は暗号文だ』って。」  そう言って、顔を綻ばせた久保は今までになく優しい眼差しをする。 「……でも、何を言ってるんだか、本当、全く分からないんだって!」 「意外と音読すると良いぞ? あれ、平安時代の人が喋ってた言葉だし。」 「嘘!?」 「本当だよ。今時の人は『もたげよ』を入れて言うべきところを『もてあげよ』とか、『かかげよ』と言うべきところを『かきあげよ』と言うのが残念だって『枕草子』に書いてあるくらいだ。」
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