あの日、どこかに置いて来たもの。

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   愛美さんは声をかけたのが俺だということを悟ると、そのまま大きな瞳で何度も瞬きをした。  明らかに驚いているその顔を見て、浅はかなことに少し優越感が沸いてきた。  どうやらピンと来ないらしいので、手に持ったままのティッシュをひらひらと弄びながら、俺は首を軽く傾けた。 「お久しぶりです。お元気そうですね」  愛美さんが心の中で俺の声を反芻しやすいようにゆっくりとそう言ってあげると、途端に彼女の目はさっきとは違う意味で大きく見開かれた。 「坂田……坂田仁志くん!」  うんうんと頷きながら、愛美さんは遠慮のない視線で俺を上から下まで、下から上まで、何度も目線を往復させながら見つめてきた。  これが逆で、見つめているのがもし俺だったら、叱られるところだと思う。それくらいじっくり見られた。  男だって、じっと見られたら恥ずかしいしいたたまれないっていうのに。  まあ、もともと人の顔をよく見つめるひとではあったけど。  こういう癖が変わっていないことに安心しながら、小さく苛立ちの火が心の端に灯る。  変わっていないのは、愛美さんの恋人がそれを気にしていないか、気付いていないから。 .

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