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すると、うろうろと視線を彷徨わせていた彼女は、抵抗するように俺の手首を軽く掴み、力なくかぶりを振った。
正直、そこまで困るようなことでもないはずで。
一瞬だけ恥ずかしいのを我慢して俺の名前を呼んでしまえば、あとはもう慣れていくだけなのに。
まあ、わけが判らなくなる程追い詰めて混乱に逃げ込むように仕組んでいるのは、俺だけど。
今にも泣き出しそうな彼女の頬にそっと口付けて、俺は低くささやいた。
「いいから、呼んで──陽香?」
陽香の喉の奥から、ひっと小さな悲鳴が漏れた。
更に潤んだ瞳から、涙がこぼれそうになっている。
それを綺麗だな、なんて思いながら見つめていると、陽香はこの世の終わりを見たような顔をした。
「ひ、仁志、くん……お願い、もう許して……」
てっきり、呼び捨てにされるのかな、なんてことを考えていたけど。
むしろ、ぎりぎりまで頑張ってようやく俺の名前を呼べた陽香を見ていると、胸とは違う場所がずくん……と重く疼いた。
その気持ちのいい痛みが何を目指しているかは判りきっていたけど、“今日はしないよ”と自分で自分に言い聞かせてやる。
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