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そんな風に思ったのは、初めてだったな…」
「…………じゃあ、次から海に入る時は…、
浮き輪持って行こう」
貴愛は、はっとして歩を見つめた。
歩はぎこちなく、けれど優しく微笑みかけていた。
貴愛は「ふっ」と笑った。
「……そうだな。そしたらもう溺れても安心だ」
貴愛はそう言って笑った。
歩は海を見つめる貴愛の姿を想像して胸が痛むのと同時に、
自分のあげたドーナッツの事を、思い出してくれたのが、
嬉しかった。
「なぁ、このチラシ見たか?」
「え? どれ?」
テレビを見ていた貴愛が振り返った。
歩は夕刊に挟まっていたチラシを貴愛に見せた。
「あぁ、これ。朝刊にも入ってたから見たよ」
「珍しいよなぁ。駅前とはいえ、こんな所に劇場が建つのかぁ」
「…うん。………実は僕、高校の頃、演劇部だったんだよね」
「……えっ?」
「………意外?」
歩は色々と考えてしまった。
初耳だったし、意外は意外だった。
演劇部ってきっと明るいタイプの奴が入るトコだよな…
でも古家が徹底的に男を演じられたのは、
演劇部だったのが影響してるのかな…?
いや、考え過ぎだろ…
歩が「う~ん」と言いながら悩んでいると、
貴愛がボソッと言った。
「………もう女役は演じられないけどね」
歩はドキッとした。
そこは考えてなかった。
空気はすっかり沈んでしまった。
「………じゃ、じゃあ」
「…うん」
「………宝塚に入ったら?」
歩の必死の苦し紛れだった。
貴愛はきょとんとしていたが、
しばらくして笑い出した。
「考えておくよ」
歩がコーヒーを飲んでいると、
何やら貴愛のいるキッチンがバタバタしていた。
昨日、貴愛が進んで料理を作ると言い出し、
キッチンに向かったが戸棚を開けるとすぐに戻り、
「鍋も包丁もないんだけど」と言ってきた。
歩は自分が料理をしないので、
鍋も包丁も揃えてなかった事に、その時やっと気付いた。
貴愛は少し呆れた感じだったが、
「じゃあ明日色々買って来る」と言っていた。
そう言っていた通り、今日貴愛はキッチン用品を買って来て、
先程から料理を始めていた。
その時は何とも思わなかったが、これだとまるで、
夫婦かなんかみたいだと思い、歩はキッチンを覗いた。
「……大丈夫か?」
「あーうん、大丈夫。まだこのキッチンに慣れなくて」
「………て、手伝おうか?」
「…え? あ、うん。じゃあニンジン切ってくれ」
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