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私はもう二度と人を愛さない
女である事も捨てる
私はもう二度と
人を愛さない
***
そういえば僕が男になって、どれくらいたったのだろう。
海に向かって一歩ずつ歩き始めた時、ふとそんな事が頭をよぎった。
思えば男になって以来の人生は、虚無だった。
でも、これから終わりを告げようとしている人生を振り返るのも、もう終わりだ。
別に何て事はない。
闇の世界から無の世界へ行くだけの事だ。
***
海辺に小さな病院が建っていた。
地元の住人が日常的に通う、狭い入院病棟を備えた病院だ。
この周辺には他に目立った病院は建っていない。
潮風の香りのする片田舎にはちょうどいい位だ。
その日、歩(あゆむ)は緊急外来の要請を電話で受け入れ、
一人の女性が運ばれてきた。
救急隊員の報告によると、通報者はタクシーの運転手で、
こんな時期に海に行きたいと言うから珍しいと思ったという。
海に着いてお金を払う挙動が何となく変だったので、
少し気になって車を降りて行く女性を目で追っていたら、
しばらく海を見つめるように立ちすくんだかと思うと、
そのまま海に入って行った。
必死で呼び止めたが、とうとう頭が見えなくなるまで、
女性の姿が海に消えたので、慌てて通報。
救急隊員が駆け付けた時は、すでに海中でかなり苦しんだ後のようで、
発見した時は水面にうつ伏せで浮かんだ状態だったという。
歩は単純に自殺だな、と思った。
今は遊泳できるような季節ではないし、
水深の深い真冬の海でウェットスーツも着ずに、
他に何の目的があると言うのだろう?
女性が自殺未遂者である事に間違いはなさそうだったが、
運ばれて来た姿を見た時、歩はある事に違和感を感じていた。
今時ショートカットの女性は珍しくないが、
服装が完全に男性のものだった。
「ボーイッシュな女性」というのとは違う気がした。
デザインもブランドもメンズだ。
黒のニットにデニムのパンツ。靴はスニーカーだった。
別に女性が着ても変ではないだろうが、
サイズも若干大きめのようだし、少しおかしいと思った。
幸い救命活動は成功した。
運ばれてきた時は、大量の海水を飲んでいたが、
心拍と脈はあった。しかし極めて意識レベルが低かった。
半昏睡状態で呼びかけても応答はなかったが、
つねると若干の反応が見られた。
最も危険な状態の峠は越えた。
まだ眠っているが、じき目を覚ますだろう。
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