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女性にはわずかな所持品があった。
男物のシンプルな黒い革製の長財布が、パンツの後ろポケットに入っていた。
他に携帯とか、小さな手鏡とか、ちょっとした化粧品とか、
ショートバックとか、そういったものは持っていないようだった。
財布には少額の所持金と保険証しか入っていなかった。
女性の身元を確認出来そうなものは、保険証以外になさそうだった。
看護士から女性が目を覚ましたとの報告が入ったので、
歩は病室へ向かった。
病室へ入ると女性は静かにベッドに横たわりながら、
窓の外を眺めていた。
「目が覚めたようだな。ここは病院だ。
海で溺れていた所を発見されて運ばれてきた。
覚えているか?」
女性は窓を向いたまま微動だにしなかった。
「……一応聞くが、誰かに突き落とされたとか、
無理矢理海に沈められそうになったとか、
そういう事はなかったよな?」
歩は質問をしたが、待っても返事は返って来なかった。
「……家族とか、連絡した方がいい人は?」
女性は窓を見る事しか知らないマネキンのように、
ただ呼吸を繰り返すだけだった。
歩は質問をする事を諦め、病室を出た。
看護士に女性を隣町の精神病棟に入院させる手続きをするように、指示を出した。
***
当初、女性を精神科に移す予定だったが、移送先の精神病棟から、
あいにくベッドと部屋に空きがない為、
受け入れられるようになるまで、そっちで預かってて欲しいと言われた。
若干の後遺症の可能性も否定できず、
歩は女性を検査入院という形でここに入院させ、
精神病棟の準備が整うのを待つ事にした。
カルテに目を通して他の医師の記録を見ても、
やはり女性に会話をする意思はないようだった。
精密検査を行い、女性を診察室まで呼んだ。
「古家(ふるや)さん、中へどうぞ」という看護士の指示に女性は素直に応じた。
簡易的な患者用の黒い回転椅子に、彼女が腰を下ろすのを待って、
歩は診察を始めた。
「今日やってもらった検査結果が出るには、少し時間がかかる。
今後あなたには隣町の精神科に入院してもらう予定だが、
準備が出来るまで当院で検査入院をしてもらう。
あなたを担当する木陰(こかげ)だ。前、一度会ったよな?」
女性は歩と自分の間の空間をぼうっと見つめて、
やはり返事をしなかった。
歩は少しため息をついて、カルテに目を落とした。
「古家…、貴愛(たかみ)さん?珍しい字だね」
「……………」
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