Ring

3/47
前へ
/47ページ
次へ
女性にはわずかな所持品があった。 男物のシンプルな黒い革製の長財布が、パンツの後ろポケットに入っていた。 他に携帯とか、小さな手鏡とか、ちょっとした化粧品とか、 ショートバックとか、そういったものは持っていないようだった。 財布には少額の所持金と保険証しか入っていなかった。 女性の身元を確認出来そうなものは、保険証以外になさそうだった。 看護士から女性が目を覚ましたとの報告が入ったので、 歩は病室へ向かった。 病室へ入ると女性は静かにベッドに横たわりながら、 窓の外を眺めていた。 「目が覚めたようだな。ここは病院だ。 海で溺れていた所を発見されて運ばれてきた。 覚えているか?」 女性は窓を向いたまま微動だにしなかった。 「……一応聞くが、誰かに突き落とされたとか、 無理矢理海に沈められそうになったとか、 そういう事はなかったよな?」 歩は質問をしたが、待っても返事は返って来なかった。 「……家族とか、連絡した方がいい人は?」 女性は窓を見る事しか知らないマネキンのように、 ただ呼吸を繰り返すだけだった。 歩は質問をする事を諦め、病室を出た。 看護士に女性を隣町の精神病棟に入院させる手続きをするように、指示を出した。 *** 当初、女性を精神科に移す予定だったが、移送先の精神病棟から、 あいにくベッドと部屋に空きがない為、 受け入れられるようになるまで、そっちで預かってて欲しいと言われた。 若干の後遺症の可能性も否定できず、 歩は女性を検査入院という形でここに入院させ、 精神病棟の準備が整うのを待つ事にした。 カルテに目を通して他の医師の記録を見ても、 やはり女性に会話をする意思はないようだった。 精密検査を行い、女性を診察室まで呼んだ。 「古家(ふるや)さん、中へどうぞ」という看護士の指示に女性は素直に応じた。 簡易的な患者用の黒い回転椅子に、彼女が腰を下ろすのを待って、 歩は診察を始めた。 「今日やってもらった検査結果が出るには、少し時間がかかる。 今後あなたには隣町の精神科に入院してもらう予定だが、 準備が出来るまで当院で検査入院をしてもらう。 あなたを担当する木陰(こかげ)だ。前、一度会ったよな?」 女性は歩と自分の間の空間をぼうっと見つめて、 やはり返事をしなかった。 歩は少しため息をついて、カルテに目を落とした。 「古家…、貴愛(たかみ)さん?珍しい字だね」 「……………」
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加