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「信じてもらえたとは思うけど、どうだ?」
笑いをこらえるような声で、中居さんは電波の向こうの仁志くんに再び語りかける。
もうあたしの耳に仁志くんの声は届いてはいなかったけど、中居さんの持つ携帯からは怒りを含んだ声が少し漏れていた。
すると、中居さんはふとあたしに視線を留める。
「……なあ、坂田。覆水盆に返らず──って言葉、知ってるか」
急に調子を変えて話し始めた中居さんの顔を、見つめ返した。
やはりその昏い瞳には、慈悲や憐憫の情のようなものが見え隠れする。
誘拐というのは、犯罪だ。
この時代、普通の環境で生まれ育った普通の人間だって、どこか昏い目をしているものだ。
犯罪者なら、なおのことそうじゃないだろうか。
それなのに、犯罪者の昏い瞳に慈悲や憐憫──そんなものが映るものだろうか。
あたしみたいな素人の想像を絶する程の、常軌を逸した精神の持ち主ならそういうことも有り得るのかも知れない。
でも、見たところ中居さんは冷静そのものだ。
さっきもそう感じたように、彼は自分のしていることを把握している。それだけの能力は、充分にある。
この状況から助かりたい本能がそうさせるのかも知れないけど、あたしは最初より幾分落ち着いた頭で必死に考えた。
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