真っ黒の淵。

8/28

198人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
   すると、中居さんはゆっくりと歩を進めながらあたしを哀れむようにふ、と口を緩める。 「……お姫様が起きたようだぞ。声を、聞くか?」  どうやらまだ仁志くんと電話が繋がっているらしい。  中居さんに対しぶんぶんと首を振ることで、やめてと訴えた。  それなのに、中居さんは皮肉な笑みを浮かべながらギシリ、とベッドに腰を下ろす。 「ホラ。彼氏と繋がってるぞ。俺が何言っても信じてくれないみたいだから、あんたが自分で無事だと伝えな」  物騒なことを言いながら、不思議とその声は慈悲で満ちている。  その矛盾がますます恐ろしかったけど──差し出された携帯をじっと見つめた。  ……ここで自分が声を出さなければ、仁志くんの心はますます乱れる。  身体が自由にならない以上、さらわれただけで何もされてはいないと──伝えなくちゃ。  カラカラに渇いてしまいそうな口の中で舌を動かし、ちらりと中居さんを見てから頷いた。  すると中居さんはふん……と小さく息を漏らして笑い、腕だけを伸ばしてあたしの耳元に携帯を当てた。 「ひ……仁志、くん……?」 『陽香、陽香か!?』  心配の塊を投げつけられたかと思うような、仁志くんの声だった。  彼が感じている怒りと恐怖が、声だけで充分に伝わる。 .
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

198人が本棚に入れています
本棚に追加