其ノ一 偖の噺

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 あとは数人の宿直当番だけを現場に残して長屋に帰るだけだ。  途中まで同じ道だった同僚に軽く挨拶をして別れてから一人野道を歩いていると、行商人の親子と出会った。着物の下にシャツを着込んだ父親が操る馬車の荷台から小さな娘が顔を覗かせてこちらに言った。 「夜になるとイ が出るから早くおうちに帰らないといけないんだって」  適当に笑顔を作って返すと、その娘はあどけない表情で手を振り、父親も軽く会釈をした。隣町から来ているのだろうか、馬車はおれが今来た方向にゆっくりと消えていった。  おれも明かりを灯さねばならないほど暗くなる前にさっさと長屋に帰らねばと思い、歩を早めようとした瞬間、背後から耳をつんざくような悲鳴がした。先ほどの行商人だろうか。  踵を返して馬車が向かった先へと駆けつけると、娘を抱きかかえる父親が振るえる手で荷台を指して言った。 「で、出やがった……!」  指さす先には狼の毛皮を身に纏い、荷台の食い物を漁る少女――否、雌のイ の姿があった。 「あんた、何をしてるんだ! 早く逃げないと!」 「でも、あの中には大事な商品や商売道具があるんです! あれが無ければあたしらとてもじゃないが生きていけません!」
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