1:あ し び き の

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 今まで自分の名前を伝えて漢字を聞かれることも勿論なかったし、綺麗だと言われることもなかった。喉の奥が熱くなったのは紅茶のせいだ。 「夜の音ってかいて、ヨネ」 「だから源氏名とやらはヨルさんなんですね」  きっと愛想笑いなんだろう、でも微笑んだ壬生の顔がとても綺麗で、ほう、と溜め息が出た。林檎の甘い香りがした。  その日から私と壬生の生活がはじまった。 *  一緒に住むにあたってルールを色々と決めた。  夜3時には必ずお互いが家に帰ってきていること、一緒に住んでいることを公言しないこと、身体を求めないこと、私が休みの日は一緒に晩ご飯をつくること。  最初3つまでは私が提案したが、最後の約束は壬生が言い出した理由を聞くと「年頃の娘がインスタント料理ばかりだなんて恥でしかない」らしい。きっと裕福な暮らしをしてきたからインスタントの味が嫌いなんだろうと思い込んでいたが、私がつくった味の無いチャーハンでも、水分のない野菜炒めでも壬生は黙って食べてくれた。美味しいものが食べたいわけではないのだろうか。  寝るとき、壬生は必ず腕枕をした。壬生は寝るときにジャージを着る。そして一番上までチャックをあげて完全に閉め切るのだが、首が長いせいかみっともなく見える。それを毎晩からかうのが楽しかった。そして本当に壬生は身体を求めることも、キスをしてくることも、抱きしめることすらしてこなかった。  壬生と生活をして半月が経った、私が休みのある日。 「壬生」 「はい」 「どうして今日は珈琲が無いの」  壬生は毎朝、珈琲を淹れてくれた。実家から持ってきた珈琲メーカーらしい。私は苦いものは嫌いなので美味しいとは一度も思った事が無いが、壬生が淹れてくれる珈琲だけは好きだった。  毎日毎日、律儀に白いカップの中で揺れていたはずの茶色い液体が今日は無い。壬生は想定外の事が起こると動揺する。三週間近くも一緒にいるとさすがに気づいてしまった。 「豆がきれてしまっていて」 「嘘。だって、まぶたぴくぴくしてる。嘘つくときそうなるよね、壬生」 「そんな事に気づくの、僕の、母親くらいでしたよ」 「ねえ、壬生」  背中を向けた壬生に、飛びつくかのように近づき腕を掴むと、今まで見たこともないような顔で振り向いた。  今にも泣きそうな、 「俺を、馬鹿にするなっ!」
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