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「――しっかり。」  高津に耳元で囁かれると、亜希はひどく大儀そうにこくんと一つ頷いた。  声がやけに遠くに聞こえる。  頼りになるのは、優しく香るムスクの甘い香り。  その香りだけはチェシャ猫のように、霧散しかけながらも亜希を休憩室まで導いてくれる。  高津は物陰にある休憩所に抱えるようにして亜希を運ぶと、彼女にベンチで休むように促した。  しかし、一旦開きだした記憶の篋は容赦なく、亜希を苛む。 『自分が高潔な人間だとでも思ってるのか?』  冷たい声が思い起こされる。 『――君は真っ黒なんだよ?』  ――真っ黒。 『――なあ、認めろよ?』  ――漆黒の瞳。  ――甘く滑らかな声。  そして、冷たく罵る声の主がようやく高津だと気が付く。 『……君はあの日真っ黒に染まったんだ。一度染まれば、汚れは取れない。』  ゴトンという音を立てながら自販機でミネラルウォーターを買う高津の背中を見つめる。  ――助けて。  無理に思い出そうとしているわけじゃないのに、ズキズキと頭が痛む。  こんな事は初めてだ。  頭を抱える亜希に高津がミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。 「……気分転換になれば良いんだが。」  水色の蓋を少し緩めてから、高津がミネラルウォーターを手渡してくれる。  亜希はそれを受け取ると、高津に支えてもらいながら冷たい水を口にした。  ――ズキン。  鈍器で殴られたみたいな痛みが走る。 「う、あ……っ……。」  わなわなと体が震える。 「亜希……ッ?!」  強張った表情の高津の姿が薄れ、幾つかの場面が色鮮やかにフラッシュバックしてくる。  ――空っぽの冷蔵庫。  ――ミネラルウォーター。  ――傷んだりんご。  亜希の手からは力が抜け、ペットボトルが落ち掛ける。  そして、しばらく苦悶するみたいに呻いていたが、やがて亜希の瞳に現実は映らなくなった。  ――魂の抜けた蛻。  虚ろな表情の亜希を支えて、口の空いたペットボトルを支え持ったまま、自分の胸へと引き寄せる。  ――代われたら良いのに。  こんな風に脆く壊れてしまいそうな亜希の姿を見ると、胸が潰れてしまいそうに苦しい。
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