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その頃、久保は浜川が手を下ろすまで、手も口も出せずにいた。
乱れていた亜希の呼吸が徐々に落ち着いていく。
――いや、違う。
完全に過去の世界に落ちている。
表情は虚ろで、目の焦点が合っていない。
浜川は頃合いを見て、ゆったりと亜希に声を掛けた。
「……進藤さん、私の声は聞こえる?」
真っ青でうち震えているのに、亜希は「聞こえる」と、力なく口を利く。
「今、どこにいるの?」
「……ホテルの一室。」
その返答に久保は険しい顔をする。
「ゆっくり呼吸をしてみましょう。」
目が泳いだままの亜希が素直に頷き、深呼吸を繰り返す。
「……久保さんがね、近くにいるけど、お話を聞くのに居てもらっても平気?」
やや間が合ったものの、ゆっくりとかぶりを振る亜希の様子に、浜川は久保に目で「出て」と目配せする。
その有無を言わせない雰囲気に気圧されて、久保は会釈すると二人を部屋に残した。
大学の廊下はほの暗かった。
それに加えて日本の夏特有のべったりとした湿潤の空気だったから、不快感がまとわりついて仕方ない。
ため息を溢してから、顔を上げると、すぐ近くの非常階段へ続く扉が少し開いていた。
――重い扉を開ける。
暗い所から急に明るいところへと出たせいか、夏の日差しは余計に眩しく感じた。
――助けたい。
だけど、自分には何を出来ない。
壁には一階だからか、蝉の脱け殻がひっついていた。
――中身のない空蝉(ウツセミ)。
それは空っぽの自分の心の象徴のようにも見える。
外の景色へと目を移せば、木立が風に揺れ、影の形も揺れている。
その造詣は一瞬で、二度と同じモノを生む事はない。
それと同じように一度壊れた関係は戻せないかもしれない。
少しだけ日陰になった段差へ腰を下ろすと、指を組むように握りうなだれる。
今の自分に、唯一、許されている事は、祈る事だけだ。
そして、久保は静かに目を閉じる。
――神様、どうか。
――彼女をお救けください。
イエス・キリストだろうが、アッラーだろうが、八百万の神だろうが、今の久保にはどれでも良かった。
ただ、亜希に屈託ない笑顔が蘇るなら、それだけで。
辺りは短い夏を惜しむように、蝉時雨だけが鳴り響く。
――青い空には白い雲。
――あの自然さで。
久保はにっこりと笑う亜希が見たかった。
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