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僕らは霧雨の中、アパルトマンまで歩いていった。
「入って。結構濡れちゃったね」
「このくらい大丈夫だよ」
部屋に足を踏み入れた途端、僕は息を呑んだ。モノクローム写真が、白い壁を覆い尽くさんばかりに貼られていた。溢れるような光と影が、部屋中を埋め尽くしている。
「ああ。これ、気になる?」
タオルを取りに行ったリディーが、いつの間にか僕の隣に立っていた。
「すごいね」
「はい。タオル」
「ありがとう」
リディーが貸してくれたタオルは、甘い匂いがした。
「私はもう慣れちゃったな。ほら、トーゴの写真も貼ってあるでしょ」
リディーは写真が貼られた壁に近づいていく。
被写体はバラバラなのに、全てリディーが撮ったと一目でわかる写真だった。
その中には僕もいた。でもまるで、僕ではない別の人のように見えた。
写真の中の僕は、リディーのカメラで切り取られた美しい世界の中で、目を瞑って芝生に寝転んでいた。木々から落ちる木漏れ日が、僕の周りに葉の影をつくりながら地面を照らしている。木々の揺れる音と、すぐ近くで吹き上がる噴水の音が今にも聞こえてきそうだ。
「この写真、いいでしょ」
「僕じゃないみたいに見える。すごいな。リディーには、いつもこんな世界が見えているんだ」
もう一度壁面の写真を眺めたとき、ある写真に目が留まった。背の高い神経質そうにも見える整った顔立ちの男が、車の前で煙草を吸っていた。
よく見るとその男の写真はたくさんあった。明らかにこの部屋で撮られた写真も。男の笑顔が誰に向けられたものかを理解して、僕は上手く表情を作ることができなくなってしまった。
「リディー、ごめん。トイレ貸して」
僕はリディーの顔を見ないまま言って、彼女が指差したトイレに駆け込んだ。扉を締め、震える息を吐く。
リディーの彼氏だと思われる写真の男は、最近よくツバメを迎えに来る男だった。車の中で、ツバメと彼がキスを交わしていた数日前の光景が甦り、慌てて頭から追い出す。
僕は大きく息を吸って、気持ちを落ち着かせた。こんなこと、リディーに言えるわけがない。黙っているしかないんだ。
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