【Juin】

2/5
前へ
/30ページ
次へ
 僕らは霧雨の中、アパルトマンまで歩いていった。 「入って。結構濡れちゃったね」 「このくらい大丈夫だよ」  部屋に足を踏み入れた途端、僕は息を呑んだ。モノクローム写真が、白い壁を覆い尽くさんばかりに貼られていた。溢れるような光と影が、部屋中を埋め尽くしている。 「ああ。これ、気になる?」  タオルを取りに行ったリディーが、いつの間にか僕の隣に立っていた。 「すごいね」 「はい。タオル」 「ありがとう」  リディーが貸してくれたタオルは、甘い匂いがした。 「私はもう慣れちゃったな。ほら、トーゴの写真も貼ってあるでしょ」  リディーは写真が貼られた壁に近づいていく。  被写体はバラバラなのに、全てリディーが撮ったと一目でわかる写真だった。  その中には僕もいた。でもまるで、僕ではない別の人のように見えた。  写真の中の僕は、リディーのカメラで切り取られた美しい世界の中で、目を瞑って芝生に寝転んでいた。木々から落ちる木漏れ日が、僕の周りに葉の影をつくりながら地面を照らしている。木々の揺れる音と、すぐ近くで吹き上がる噴水の音が今にも聞こえてきそうだ。 「この写真、いいでしょ」 「僕じゃないみたいに見える。すごいな。リディーには、いつもこんな世界が見えているんだ」  もう一度壁面の写真を眺めたとき、ある写真に目が留まった。背の高い神経質そうにも見える整った顔立ちの男が、車の前で煙草を吸っていた。  よく見るとその男の写真はたくさんあった。明らかにこの部屋で撮られた写真も。男の笑顔が誰に向けられたものかを理解して、僕は上手く表情を作ることができなくなってしまった。 「リディー、ごめん。トイレ貸して」  僕はリディーの顔を見ないまま言って、彼女が指差したトイレに駆け込んだ。扉を締め、震える息を吐く。  リディーの彼氏だと思われる写真の男は、最近よくツバメを迎えに来る男だった。車の中で、ツバメと彼がキスを交わしていた数日前の光景が甦り、慌てて頭から追い出す。  僕は大きく息を吸って、気持ちを落ち着かせた。こんなこと、リディーに言えるわけがない。黙っているしかないんだ。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

90人が本棚に入れています
本棚に追加