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「疲れたあ」
「これじゃあ、まるで泳いだみたいだよ」
「私だって濡れているんだから」
「どこが? ほとんど濡れていないし、濡れたのだって、リディーが自分で水に入ったからでしょ。本当に滅茶苦茶な人だな」
怒ったように言いながらも、僕は腹を立てているどころか、いつになく爽快な気分だった。
急にリディーが僕のことをじっと見てきた。
「何?」
「いつもそうやって笑っていればいいのに。つまらなそうな顔をしているよりもずっといい」
リディーはまたファインダーを覗き込み、シャッター音を響かせながら、僕を世界から切り取り始める。
「ねえ。リディーの目には、どんな世界が見えているの」
ベンチの上で濡れた服を乾かしながら言うと、彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「最高に美しく見えているわ。トーゴも含めてね」
「何それ。よくわからないな」
リディーから離れて、僕は自転車に載せたままだった焦げ茶色のケースを出してきた。
「ずっと気になっていたんだけどそれ何。随分大きいケースね」
ケースを開けると、マット加工されたゴールドが太陽光で鈍く光る。
「これ、トランペット? トーゴってトランペッターなの?」
「ううん。これはただの遊び。上手くはないよ。持ち歩ける楽器があるほうが楽しいから、時々吹くだけ」
僕は、『There Will Never Be Another You』のイントロを吹き出した。
(Chet Baker『There WillNever Be Another You』)
柔らかなトランペットの音が、空に抜けていく。陽気なようで、切なさも感じるこの曲が好きで、僕はチェットベイカーの演奏をよく聴いている。
僕の奏でるメロディに聴き入っているのか、リディーのカメラを持つ手が徐々に下りていく。
響き渡るメロディが、木々の葉が擦れる音に混ざり合う。
僕はリディーの隣に座り、トランペットを置いて曲の続きを歌いだした。リディーは僕の顔を見ながら、静かに聴いていた。
最後にもう一度、トランペットでテーマを吹きながら空を見上げると、いつもより幾分か世界が美しく見えるような気がした。
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