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曲が終わるとリディーが僕に飛びついてきた。
「な、何?」
「だって凄い! トランペットも歌もすごく甘くて。いい音だし上手だし、聞き惚れちゃった。歌詞の意味がわかったらもっといいのに」
「別れの歌だよ。季節が変わって違う人と過ごすようになっても、君の代わりなんていないっていう」
「そんな寂しい歌詞なんだ。でも、温かさのある曲だから、きっと彼女のことがまだ好きなのね」
「どうだろうな。僕はそういうのよくわからないや」
僕はそっとリディーからからだを離した。
びっくりした……。リディーから甘い香水の香りがして、頭の中がくらりと揺れた。女の人ってこんな香りがするんだ。
疚しい気持ちを頭から追い出すために、僕は頭を左右に振った。
「冷たいの? 私の家はすぐそこだから、服を乾かしてあげる」
「え?」
「乾燥機があるからすぐ乾くわ。写真の続きはまた今度ね」
リディーは僕が頭を振ったのを、濡れて寒いからと思ったようだ。
「次もあるんだ」
「駄目?」
「……仕方ないからいいよ」
「約束ね、ほら行こ!」
「え、いいよ」
「遠慮しなくていいってば」
リディーはまた僕の手を握り、強引に引っ張って行こうとする。
僕はリディーの手をほどいた。
「やっぱり、今日はもう帰るよ」
「そう。じゃあ、来月の第一土曜日に図書館で待っているから来て。約束だからね」
リディーは眩しい笑顔を僕に向ける。
「うん、行けたらね」
曖昧な返事をして、僕は自転車に跨り、ペダルを漕ぎ出した。カゴの中で、ガタゴトとトランペットのケースが音を立てる。
後ろからリディーが大きな声で叫んだ。
「トーゴ、約束だからね!」
僕は振り返らずに手を振って、そのままペダルを漕いだ。
パリの日没は遅い。五月のこの時期は九時過ぎになるとようやく太陽が沈む。
ひとりの夜は嫌いだから、日が長いのは有難いけれど、僕はまだこの明るい夜に慣れることができずにいた。
でも今日は、いつもより街が美しく見えた。これは彼女が見せてくれた魔法なのかもしない。
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