第1話 ヲワリ の ハジマリ

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焼きつくような記憶の中で、父はいつも母を殴っていた。 小心者で成り上がりの息子である彼は、良家育ちの母への劣等感と、繁盛しない商売への不安を酒で誤魔化し、それに乗じて母を殴り、蹴り、時に犯していた。 母が細い喉から絞るような叫びをあげようが、泣いて赦しを乞おうが、持病のために咳き込み呼吸すらままならない時でも御構い無しに、父は母を無茶苦茶にしていた。 そして幼なかった私は、ただそんな父による蛮行を、泣きながら見つめているしかなかった。睨む瞳も、涙でぐちゃぐちゃでは到底役立たないとは知りながら。 だからか、だからこそなのか、そんな父に赤紙が来た時も、戦死の知らせが来た時も、遺骨さえ戻らずに数年が経つ今でさえ、私に"父を失った悲しみ"というものは一向に訪れない。むしろ今、母との慎ましくも平穏なこの暮らしを、幸せに感じている。 「さて、次は…ああ、また軍服の仕立て直しか。」 出兵する寸前まで酒に溺れていたあの男が唯一残して役立ったものと云えば、このオギノ洋裁店だけ。幸いにも、あの男が若い頃踏んでいたミシンは、古いが今でも使える。生まれつき脚の悪い私でも、古着の仕立て直しや繕い物程度なら出来る。 こんな時代の中、けして裕福な暮らしでは無いが、私は幸せだ。 母を守れる手立てが私にあるのだから。 「玲二さん…玲二さん?」 「母さん…」 戸口から覗く、白く儚い笑顔、母だ。 ごめんなさい、ミシンの音で聞こえませんでした。 私がそう言うと、母はいいんですよと微笑む。裸電球の薄暗い光に照らされた母の、その白い肌とほっそりした顔立ちのせいか、ますます本来の年齢には見えないほどに、私にとって好ましい美を孕んでいる。 戦争が終わる少し前までは生気が感じられないほどに青白かったが、今では随分よくなった。咳き込むことは、まだよくあるが。
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