―其ノ陸―

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 ――途端に、相手は自動車にでも追突されたかのように吹き飛んだ。 「……え?」  言うまでもないが、人の拳で人間は軽々とは吹っ飛ばない。加賀屋並の体格で幼子を本気で殴ったとするならばまだ理解できるが、大介が殴ったのは自分より身長も体格も大きい相手である。吹っ飛ぶだなんて、ありえない。  喚きながら炎の燃え移ったシャツを破いている殴った相手を見ていた時、大介は体の変化にまた一つ気づいた。  相手を殴った拳が、全く痛くないのである。  喧嘩は痛み分けと見られる節がある。殴られた相手は勿論痛いが、殴る方も余程人を殴り慣れてでもいない限り拳を痛める。大介は喧嘩慣れどころか人を殴ったのも今のが初めてである。素人だ。軟弱な握り拳が少しも痛まないということはないはずである。  それなのに、痛くない。 「このッ……化け物がァッ!」  背後から振り下ろされた金属バットが、大介の脳天に直撃する。凹んでいるバットと十分な手応えで勝利を確信した相手は、ニヤリと笑い距離を取る。大介の近くにいるだけで相当熱い上に、炎が燃え移る可能性も高いからだ。  叩かれた大介はというと、数秒後に平然と後ろを振り返った。不良達が驚愕しているのは勿論のこと、凹んだバットを見た大介自身も自分があんなに強く殴られたことを知り驚愕していた。  大介が頭に感じたのは、小突かれる程度の感覚。痛いとはとても言えないほど微弱な、何かが当たったという程度のもの。  熱くなく、苦しくなく、痛くない。  これらの変化が図書館で確認した自身の複言“心頭滅却すれば火もまた涼し”の発現によるものだということは理解していた。都合の悪い感覚を麻痺させる能力なのかとも考えたが、これだけの時間炎に包まれているにも関わらず薄皮一枚焼かれていない肌を見る限り、そうではないようであった。  神経を誤魔化すというレベルを上回る別の能力。次の一撃では、さらに遠くへ不良が殴り飛ばされていった。それでもやはり、拳は痛くない。  攻撃は効かず、相手は拳で人間を数十メートルは軽く殴り飛ばす猛者。オマケに体には炎の鎧を纏っている。数十人掛かりでも掠り傷一つ負わせられない、圧倒的なまでの力の差。下っ端達が戦意を喪失するまで、そう時間はかからなかった。
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