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「自分の子供って、どうしても特別なんだよね。他の子ように冷静に、客観的に見れない部分があるんだ。」
ある時、私の幼馴染はそう答えました。
彼女は、保育士の資格を有しており、独身時代から幼児教育の現場で活躍していました。結婚をして、二人の子供に恵まれ、そして今もなお、保育士として活躍しています。
彼女は、幼児教育のプロであり、子供の気持ちを理解すること、そしてどのように導いていくべきなのかを非常によく心得ている存在だと思います。
そんな彼女が、ふっとそんな本音をもらしてくれました。
「分かってるんだけどね、言い過ぎは良くないって。でもね、期待しちゃうの。『あなただったら、もっとできる。』って、どうしても思っちゃうの。自分の子供でなければ、もっと客観的に、『ここは出来なくても、ここは伸びてるからね。』って、優しくみられるのにね。」と。
我が子に宿る特別な思いと期待。
これは、宿ってしかるべき愛情であり、感情だと思うのですが、気がつけば多くの人はこの幼き頃に植えつけられた、「親の特別な感情から発生する期待。」に苦しめられているのではないでしょうか。
私の幼少期を思い出すと、常に母から届けられる期待と戦っていたように思います。
私は、生まれたのが四月三日という事もあり、保育園に通うクラスメイトと比べると体格も良く、更に利発的な一面があったと思います。小さい頃というのは、四月生まれか、三月生まれかで随分発達速度が違う部分もあり、クラスメイトの中で一番早く産まれている私が三月生まれの子より、知恵があるのは当然なのですが、そのような状況が母親の教育魂に火をつけたように思います。
一番最初に作文を書かされたのは、四歳の時でした。保育園で行った遠足の事を書くようにと、使ったこともない便箋用紙を用意され、夕食が終わってからひたすら書かされた記憶が残っています。まだ、文字もしっかりと認識していない状態の中で、どれほどの文を書いたのかは覚えていませんが、私の指には、しっかりとペンだこが出来ており、それを見た大人たちがしきりに、「ゆりちゃん文字を書くの?すごいわね~。」と言ってきて、その言葉に対し、母が嬉しそうに「そうなのよ~。」と、答えていた記憶があります。
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