寒椿

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虹を作っていた。 手を伸ばしたら消えていた。 だから、また虹を作って手を伸ばす。 触れない虹を作っては手を伸ばし、消える虹を見てまた作る。安っぽい緑色の如雨露(じょうろ)を手に持って佇ずむ僕の何と惨めな事か。 無意味だとわかってはいるのだ。だけど止められず僕は何ヶ月も虹を作っては手を伸ばしていた。 彼女の死んだ、この場所で。 特に事件はない。ドラマも葛藤もなく唐突に僕の彼女はこの十字路でバイクに跳ねられて死んだ。 運転手が酒を飲んでいた、なんて事もなく、本当に些細なただの事故だったらしい。世間的に見ても新聞の片隅で取り上げられた程度だ。 彼女の死の価値はその程度か。 そう思うと涙も出なかった。 真摯に謝る運転手を詰る事もできず、もやもやした気持ちのままここに来て彼女が息を引き取った場所に佇んだ。何の変哲もない十字路、そこを囲む様に設置された街路樹。 何もない、何も。 ポツンと添えられた花束だけが酷く寂しそうにある以外には。死者を弔うにしては随分と安っぽいなぁ。 無意識に出た僕の声はいつもと変わらない。あるいは、ここで涙でも出ればいいのかも知れないが涙腺は枯れ果てた様に沈黙を保った。 いっそ、自暴自棄になって飛び込んでやろうか。彼女と同じ場所で同じ様に死んでやろうか。 本気で思った訳ではないが当時の僕には酷く魅力的な悪魔の囁きに聞こえたのだ。 そんな僕を止めたのは街路樹に生えた一輪の寒椿だった。 心をも凍てつかせる風に晒されてなお堂々とした立ち振る舞いは、大輪の花と言う言葉がふさわしい。同時に一瞬を咲き誇る花の前で無意味に命を散らすのが、酷い侮辱にも思えたのだ。 何よりも。 僕には寒椿の後ろで静かに首を横に振る彼女が見えた様な気がした。 その日から僕は虹を作り始めた。
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