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自分のためには怒れないが、誰かのためになら怒ることができる。そんな優しい少女の傍らにいることができ、瀬野大介は本当に自分が幸せ者であると実感する。
「ありがとう、硯川」
大介が素直に礼を述べる。だが、それに対する叶の顔は不満足そうであった。
「大介君、その“硯川”って言うのやめて」
「え? じゃあ何て呼べば」
「昔みたいに“かなちゃん”って呼んでよ」
「い、いやっ、それは流石に恥ずかしいだろ」
「じゃあ、“叶”って呼んで」
詰め寄ってくる叶に、大介はたじろく。
「いや、女の子を下の名前で呼び捨てにするのも恥ずかしいっていうか」
「きずなさんは下の名前で呼び捨てにしてるよね?」
「うっ」
確かにその通りであった。きずなはそういった男女の垣根を越えて、誰にでも親しく名前で呼ばせてしまう不思議な力がある。大介自身今まで違和感なくきずなを呼び捨てにしていたのだが、指摘されてみると確かに名前で呼んでいるのはきずなだけであった。
「私だって“大介君”って名前で呼んでるのに、不公平だと思うの」
「で、でもやっぱ呼び方ってのは年月を得て自然と変わってくるもので」
「呼んでくれないと、さっきの下着の件許さない」
叶は妙なところで頑なであった。ジッと大介を見据える彼女の右目。手は未だに大介の右手を握ったままで、こぼれた紅茶はテーブルの上で水溜まりを作っている。
下着の件を解決するために大介は殴られたわけであるが、あれは結果的にご褒美であったのでまだ叶には許さない権限があると言えなくもない。
一番恐ろしいのは、この件を暴露されることである。もしそうなればきずなからは罵詈雑言を浴びせられ、照子からは大穴に強制落下を余儀なくされ、育からは制裁という名の暴力を受けることになり、仕上げに叶の母親から刺されるかもしれない。
様々な理由を考えたところで、叶に頼まれた時点で大介に断るなどできるはずもないのだが。
「わかった。今度からそうするよ」
「今呼んで」
「え?」
「今呼んで」
頑固である。仕方ないなと大介は気軽に「叶」と呼ぼうとしたのだが、これが異様に恥ずかしい。喉が急激に乾くも、紅茶はこぼれてしまったため喉を潤すことは叶わない。
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