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目の前にいるのは、小学生の頃とはいえ一度は恋した女の子である。緊張するのも無理はない。その結果、
「かにゃえ」
噛んだ。
吹き出す叶を前に、大介は顔を赤らめて縮こまることしかできない。一頻り笑った叶は、涙目を擦りつつ「あ、紅茶拭かないと」と今更なことを言って立ち上がった。
布巾を手に戻ってきた叶は、テーブルを拭きながら口を開く。
「やっといつもの大介君に戻ったね」
「……何の話だ?」
「ずっと悲しそうな顔してたから。護衛の話の時から……いえ、引っ越しの手伝いをしてくれてる時からずっと」
言われて大介はハッとなる。心の中で蠢いていたやり場のない気持ちは、今や何処かへと消え去っていた。叶が頑なに迫ってきた理由は、そのためであったのかと感服する。
「あ、でも名前で呼んでほしいのは本当だからね」
念を押されてしまった。大介は「適わないな」と笑うと、ゆっくり立ち上がる。
「おかげで踏ん切りがついたよ。ありがとうな硯川」
「聞こえない」
「え? あ、ありがとうな……かっ、叶」
「どういたしまして」
彼女は優しく微笑む。きっとこれからも、彼女が笑う度に大介は今の幸せを実感するのだろう。
「紅茶ごちそうさま。じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
叶に見送られながら外へ出て、大介は大きく伸びをする。そして、自分の部屋へと続く階段を上る――のではなく、別方向へ歩き始めた。
踏ん切りがついたというのは、諦めたという意味ではない。やれることはやっておこうと決めたという意味だ。
せめて二人がこの街を無事に離れるまでは護衛を務めよう。向かう場所は駅。もっとも、もう二人は出発した後かもしれない。それでも、やれることはやっておきたいと大介は思えた。
後悔はしたくないから。同じ桜ランクとして、自分にできることはしてあけたいから。
「何処に行くつもりだ?」
その行く手を阻む、一人の男。不衛生な黒髪に中途半端に剃り残っている髭。無愛想な顔に覇気はなく、実にめんどくさそうな表情で大介を見ている。
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