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「それじゃあ、僕らは退散するよ。貴彦、明日様子を見にくるからな」
そう将一が切り出すと、母と秋子は手荷物を取りながら頷いた。
「いいよ、もう来なくて。忙しいんだろう」
貴彦がそう言うと、小枝は握っていた手に些か力を込めて、貴彦の名を呼びたしなめる。
貴彦の憎まれ口には慣れていた家族たちだったから、彼をたしなめる者の存在が珍しく、一斉に小枝を見つめた。
そして次の瞬間、皆がクスクス笑い出し、今度は小枝が面食らっていた。
将一が言う。
「これからは言葉遣いに気をつけないと。な、貴彦」
貴彦は、無愛想に明後日の方向を見つめ、それには答えなかった。
家族たちは、口々に小枝に礼を述べて、彼女と榊に見送られながら帰って行った。
榊は貴彦に近づいて、
「これでやっと落ち着いて仕事ができるよ。事務所の連中も安心するだろう」
と言った。
「お前には世話ばかりかけているな。皆には宜しく伝えてくれ。できるだけ早く復帰するから」
貴彦は、榊に心底感謝していた。
思えばこれまでも、こうして様々な場面で手を差し伸べてくれた友だった。
榊の恩に報いる器量が、果たして自分に備わっているだろうか。
榊のために心を砕く、そんな時がくるのだろうかと、貴彦は榊に感謝しつつも心苦しく感じてならなかった。
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