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小枝は、売店に行くが欲しいものはあるかと貴彦に尋ねる。
「欲しいのは君だよ」
貴彦は半分本気の冗談を言った。
小枝は狼狽え、えっと声を上げる。
貴彦が新聞をと言い直したので気を取り直すが、その頬は赤かった。
貴彦はうれしそうに笑った。
小枝が病室を出るとすぐ、見舞い客があった。
事務所の若手と既婚女性のスタッフだった。
彼らは事務所を代表して来たと言い、他の者から預かった大判の茶封筒を二つと、自分たちからと見舞いの品を渡す。
貴彦の事件はなぜか報道されなかった。
その為、ほとんどの知人は事件を知らずにいたが、仕事の相手先に対しては、貴彦が怪我を負った旨は伝えられた。
それで、今週事務所に届いた見舞いだと、百貨店の紙袋五つがテーブルに置かれた。
「わざわざ済まない。それに今回の件ではいろいろ心配をかけたね。
事務所の方は大丈夫か?」
貴彦はいつになく穏やかな語り口で話す。
若手スタッフが答える。
「こっちは大丈夫です。事件直後は多少ばたつきましたが、榊さんの踏ん張りで乗り切った感じです。」
女性の方も口を開く。
「それにしても、一時は駄目かもと聞いていたのに、とてもお元気そうで...本当に良かったですね」
貴彦は笑顔をみせると、殊更に元気に話す。
「一週間も眠っていたなんて僕自身も驚いたよ。昨日目覚めてからこっち、順調でね。医者にも驚かれてるよ」
「本当に驚きですよ。もっと痛々しい姿を想像していましたから。
なんだか拍子抜けしました」
三人は笑い合った。
だが二人は、実際貴彦の姿に痛々しい思いを抱いたし、この件についても決して軽く収めた訳でもなかった。
身体だけの問題ではない。
貴彦のタフさは知っていたが、内面に受けたダメージは計り様がない。
こうやって、さも『何でもない』風に周囲が振る舞うことが、返って貴彦の回復のためになるのではないかと、彼の姿を目にした瞬間に二人は悟っていたのだった。
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