Ⅰ 

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   婚約者が行方不明になった。  時は十九世紀末ヨーロッパ。  ここ最近、正確に言えば一ヶ月程前から、奇妙な事件が続いている。簡潔に言えば《失踪》である。  町人が次々と行方不明になり、警察官や身内の捜索も虚しく、未だ誰一人見付かっていない。新聞の記載によると、もう十人になると書かれていた。  馬車に揺られながら見ている為、上手く読めない。最初を軽く読んだだけで終わった。慣れない事をするものではないな、と額に手を置く。  目が疲れ、気分が悪くなった。吐き気がする。頭が痛い。黒塗りの馬車に乗った金髪碧眼の若い男は、指の隙間から横目で窓から外を覗き、早く目的地に着く事を願った。  煉瓦造りの家が建ち並ぶ町中。エプロンをかけた質素なドレスを身に纏い、バスケットを片手に商店街を歩く婦人。茶色いインバネスコートを身に纏い、パイプを咥えてカフェを訪れる紳士。ハンチング帽子を被り、無邪気に歩道を駆け回る子供。  多くの人々が行き交う、石畳みの路上。時折り馬車が人々を掻き分けて通り過ぎる。  町の名は【ニル】。    人口五千人程度。これと言った特徴もない、地味だが活気のあるこの小さな田舎町は、一見すると至って平和だ。犯罪には警察官が目を光らせ、夜は狭い間隔で設置された街灯が町をくまなく照らしている。  【ニル】には誇れる様な名物はない。著名人を出自した事もない。更にこれといった劇的な歴史も残っていない。辺鄙な場所にある訳ではないが、全てが平凡で平均的で、特出した物がない。  そんな田舎町の唯一の特徴と言っていい、名所がある。それは、ここは世界の中心とでも言いたげな、ひときわ高い塔。町のどの建物よりも高いそれは、この町のシンボルでもある。  バットレス(飛控壁)のある壁面、細長く尖った屋根、雨樋の先端に置かれたガーゴイル(怪物)の彫刻、ポインテッドアーチ状の窓、巧妙な細工が施された文字盤、その周りに飾られた大理石のレリーフ、寸分狂わず規則的に動く針ーー  そう、ただの塔ではない。これは常に正確な時を町人に伝えている、《時計塔》だ。
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