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「という訳で、これは引っ越し祝いの品だ。受け取ってくれ」
「は、はぁ。どうも…」
空良は覆い布を被せた盆を小辰に渡す。引っ越し祝いというからには蕎麦だろうか。俺はそんなことを思いながら、その布を不躾ながら外してみる。
「…ひ、冷麦…」
その中に入っていたのは蕎麦ではなく、単なる冷麦であった。どう逆立ちしても、これはこれからのシーズンに食すものではないだろう。
「初っ端から嫌がらせですか」
「何を言う。暖かいつけ汁にでも漬けて食えば文句あるまい」
「いやもういいです…帰ってください寒いし」
小辰はもはやグロッキー状態であった。寒さに耐えるので精一杯で、この空良とかいう訪問者の贈り物攻撃に構ってられる余裕もなさそうだ。
「言われなくともそうする。まだ他の住人にもご挨拶しないといけないからな」
空良はそう言って、寒風にその黒髪を靡かせながら踵を返す。と、
「ああそうそう、もう一つ」
思い出したように呟き、背中を向けたまま停止した。
「その制服で思い出したが、私も明日からその学校に転校する。幸はまだ中学生だが、私はお前たちと廊下ですれ違うこともあるかもしれん。その時はよろしくな…幸、行くぞ」
「……うん」
衝撃の事実を言い残し、稗田姉妹は別の部屋へと向かっていった。しばらく開けっ放しのドアから冷気が容赦なく部屋の中に入ってくる。
「…変なお隣さん来ちゃったね姉ちゃん」
「うん…多分仲良くやれないような気がする…」
小辰は憔悴しきった顔でぽてぽてと居間に戻っていくと、頭からコタツの中に入り込んでいった。俺は相変わらずの姉の動きに嘆息し、そのドアを静かに閉めたのであった。
「うっうっ…音鳴さん戻ってこないかなぁ…」
コタツの中からくぐもった嘆き節が聞こえてくる。ストッキングに包まれた足のつま先だけをわずかに出しながら、この寒がりな姉は早くも出会ったばかりの隣人に音を上げていた。
「…ま、ご近所トラブルに発展しそうになったら大家に言いつければいいし。まずは様子見だね」
「無理だよぉ、なんか冷たそうだもんあの二人…」
「ま、ごもっともで…茶淹れてくるわ。緑茶でいい?」
「ん」
そして俺は自分に言い聞かせるように言い、気分転換に熱い茶でも淹れてやろうとキッチンに向かう。やはり外気が入ったせいで部屋が冷え切っていた。
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