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あれはいつのことだったか、私が療養地に行って初めての満月だった。
私は病気のせいでそのころ夜が眠れず、その晩寝床を抜け出して、月夜だったこともあり、旅館を出て、砂浜に出ていった。
浜には何の人影もなく、荒い波が月光に砕けながら打ち寄せていた。
私は煙草をつけて漁船の船尾に腰掛けて海を眺めていた。
夜はすっかり更けていた。
しばらくして私が砂浜に目を向けたとき、私は砂浜に私以外のもう一人の人を発見した。
それが蛍君だった。
しかしそのときは蛍君という人を私はまだ知らなかった。
その晩、初めて私達は互いに名乗りあったのだから。
私はその人影を長い間見つめていた。
そのうちだんだん違和感を感じるようになった。
落し物を捜しているかのように、砂浜を前に進んだり、立ち止まったりしているが、それにしてはかがんだり、砂をかきわける様子もない。
しかも月明かりがあるとはいえ、火をつけて見る様子がない。
私はその人影が一度もこちらを振り返らないのを幸いに、彼を見続けた。
その人影の何か惹かれる様子を感じたからだ。
私は無意識に口笛を吹き始めていた。
今思えば彼に気づいてもらうためだったのかもしれない。
ハイネの『海辺にて』と『ドッペルゲンゲル』。
そのときの私たちを表しているかのような歌を吹きながら、私はまたしばらく人影を眺めていた。
人影は前に進んだり、後ろに退いたりをくりかえしている。
私は、きっと落し物だろうと心でつぶやき、立ち上がって人影に近づいて行った。
近くに行って、私は落し物ではないことに気づいたが、
「何か落し物をしたんですか?」
と呼びかけていた。
手に持つマッチを示すようにして。
「落し物だったら、マッチがありますよ。」
次にはそう言うつもりだった。
だが落し物でないと悟った以上、それはただ彼に話しかける手段にすぎなかった。
彼は最初の言葉で振り向いていた。
「何でもない……です。」
澄んだ声だった。
色素の薄い髪と病的なほどに白い肌に月の光がとてもよく映えていた。
そして微笑みがその口元に漂った。
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