86人が本棚に入れています
本棚に追加
時々さりげなく稲葉が視線を走らせる。その先を何度も探して、やっと行き着いた。
野上・・・・さん?
野上・・・・課長とは以前の部署で一緒だった。かなり生意気だった俺は色々つっかかったが、営業成績も、語学も、取引先との対応も、何ひとつかなわなかった。
へえ・・・・そういうことか。と思ったけど、どうやら稲葉の片思いらしい。
たしか野上さんは結婚してるし、子供もいると聞いていた。
しかも俺と違って真面目。浮いた話は聞いたことがなかった。
しかししばらくすると、2人の雰囲気は何となくぎこちなくなった。
何かあったか・・・それとも何もなくなったのか・・・・。
俺、何を観察してるんだ。
別に興味はない。あの2人がどうなろうと。
6月に入るとシンガポールで取引先の倒産騒ぎが起き、アジア課は毎日バタバタしはじめた。
まあ、無理もない。めったにないことで、野上さんも現地との連絡で忙しそうだった。
稲葉も残業が多くなり、夜もたまに見かけるようになった。
ある夜、缶コーヒーでも飲もうと休憩室に入ると、壁にもたれて稲葉が眠っていた。
息が止まるほど驚いて、足が進まなくなった。
白い頬がかすかに色づき、その無防備な姿に不覚にも息を飲んだ。
そんな自分の気持ちに腹が立つ。
こいつ・・・・バカじゃないか。
こんな所で寝顔を・・・・他の男にさらして。
俺以外の誰かが見たら・・・・と思うとますます腹が立つ。
わざと自販機で音を立て、目を覚まさせた。
あ、という顔で見上げた稲葉に、
「こんな所で寝るか?普通」
といい放つ。
さらに頬に赤みがさし、明らかにむっとした顔が、なかなか魅力的だ。
さらに、
「百年の恋も醒める」
と言って背中を向けた。
怒ってるだろうけど、これで俺のことは忘れないだろう。たぶん。
無視されるよりましだ。
でもそれからたまに向けられる稲葉の視線は、けっこうキツかった。
修正路線は見つからなかった。
そもそも女に気にかけてもらう方法なんて知らないし。
女はいつも寄ってくるもので、選べば良かっただけだった。
俺が訳のわからないジレンマに悩んでいると、6月も終わりに近づいた頃、2人の雰囲気はまた、変わった。
最初のコメントを投稿しよう!