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「臆病を自分の武器に変えて見せるの」
カブラヤオーは、怖いものから単純に逃げようとすることで無類の力を発揮していた。
一見弱さにしか見えない心の傷を、知らず知らずのうちに力に変えて見せていた。
逆にいえば。
はたから見れば強さにしか見えないそれは、実は弱さの裏返しだった。
勝つための作戦としての『逃げ』ではなく、本当に恐怖の対象から逃れるためだけの、単純な意味での『逃げ』だった。
確かに似ている。
状況も、経緯も、心身状態も。
400mのトラックの向こう正面、残り200mの地点で、
『彼』はそんなふうに先生の言葉を思い出していた。
もちろん、そう考えることができたからといって、これまでイジメの限りを尽くされてきた『彼』がそう簡単に割りきれるかといえばそうではない。
冒頭にも書いたとおり、その考え方は今も彼の身に脅迫観念となって、
新たな痛みとなって迫って来ている。
高校で自分が『奴』と対戦することはもはやこれが最後。
ここで手筈通りに『奴』に負けてしまえば、
それはそれで『奴』からの脅迫はその先もうないだろうし、係わり合いもなくなって行くだろう。
『奴』にとっての脅威でさえなければ、自分もただの三年生。
万事はここでしっかりとおさまるはずだ。
そう囁いて来る、これまで耐えることをよしとしてきた、暗の部分の『彼』もいて。
本当のところはそれが一番楽な方法で。
つい二日前まではそのつもりでいて。
だが、それと同格に。
勝ちたいのも、また事実。
いや、勝ちたいというよりは、勝つ手段………恐怖を力に変えることができるかもしれないという、妙な色気。
先生の言葉通りならひょっとしたら自分にも勝てるかもしれないという、
弱さを強さに変えることができたら、本当に何か変わるかもしれないという、淡い希望。
陽炎の立ち上る砂の上で、彼は陽と陰の板挟みにあっていて。
身をきるような苦痛となって、彼の体中に酸素を送りつづける心臓をきゅ、と締め付けていた。
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