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しかし、そもそも…………と『彼』は考える。
勝ちたい気持ちが少しでも自分の状況に勝っていたなら、
とっくの昔に自分は『奴』に勝つという決断を自分自身の中で下していただろうし、
逆にこのまま終わって、このあとの学校生活が安泰で済んでそれでいいと本気で心の底から思っていたのならそもそもこんなことを考える必要はなかったはずだ。
今、
自分はもはや過去の問答を必要としていないのではないか。
勝つ、負ける、抵抗する、イジメられる。
そういういたちごっこの段階の問答は、もはや今何の価値も成さないのではないか。
だからこそ胸が苦しいのではないか。
葛藤の中に、新しい要素を求めているからこそ、
第三の自分を見つけかけているからこそ、
『逃げる』、という新しい決断が選択肢の中に含まれているからこそ、
自分は悩んでいるのではないか。
恐怖心を力に変えてしまうという、勝つでも負けるでもなく、
最終的な結論も結末も何も分からない、カブラヤオーの『逃げ』という物を知ってしまったからこそ、
この勝負は葛藤に満ちて、混沌に満ちていて。
カブラヤオーの示した『逃げ』は、
負けを認めるものではない。
が、勝ちを掴むための物でもない。
「弱さを強さに変える」。
状況が、自分の弱さが、『勝ち』を『掴ませる』。
能動ではなく、受動。
自分の生物としての本能に従って、恐怖から逃れる。それが結果的に周囲からの喝采に繋がり、『強さ』と誤認される。
所詮はまやかしの『強さ』。
本当に自分に打ち勝ったわけでは、ない。
だが、今、そもそも本当の意味での強さが必要だろうか?
『勝つ』ことにこだわる必要があるだろうか。
『逃げ』は本当の強さではない、それは事実だが、
はたして本当の強さにこだわることに意味があるだろうか。
今、自分には本当の強さは、ない。
『勝つ』事など到底できない。
できないこととできることを比較することなど、机上の空論に過ぎないのではないか。
このまま変わらず仕舞いで高校生活を終えてしまうのと、
嘘でも『強さ』の片鱗を見せて、『弱さ』で勝ってみせて何かを壊して変えて見せるのと、
どっちに価値があるのか。
本当に今の自分が求める選択肢はーーーー
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