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『彼』はコーナーに差し掛かった。
残りは50mと少し。
葛藤の『彼』はいつになく全力疾走だった。
いや、あの50m走以来の全力疾走というべきか。
場内がざわつく。
あのイジメられっ子が、本当に目の前を風のように走っているあの男か、と。
『彼』への『奴』のイジメは、どうやら周知の事実であったらしい。
そのざわめきは、『奴』の心を揺さぶらせた。
嘘で固められたタイトルの数々を背負った『奴』には、
そのざわめきが、『彼』にむけての、
強者へ立ち向かう弱者へ贈られる、人間原始の大喝采のように聞こえてならなかったのだ。
もちろん『彼』は、立ち向かっているわけではなく、逃げているだけなのだが。
そして同時に『奴』は、実力的に見てもこのままでは『彼』に追いつけないと思った。
負けると思った。
そして被害妄想的に、自分が負けることでこれまで作り上げてきた嘘が全部暴かれてしまうのではないかと恐れた。
本当に一番『速い』のは、彼だというその事実が、示されてしまうのではないかと。
だから叫んだ。
前を行く『彼』に向かって、思わず怒鳴ってしまった。
「手筈通りにやれよ!またぶちのめされたいか!」
その一言が、
『彼』の迷いを払拭させるほどの恐怖を彼に与えてしまったことは
もはや『奴』にとって悲劇であったと言うほかにない。
『彼』は、その怒声を耳にすることによって、
身体一杯に恐怖を蔓延させることに成功した。
後ろから来る『奴』はもはや彼にとっては鬼か悪魔か。
恐怖の対象以上の何者でもなく、その先の事など考えられないほどに、
とにかく逃げなければ今すぐ殺されるくらいの恐怖を伴った、
『逃げ』の対象となった。
「臆病を自分の武器に変えて見せるの」
冗談じゃない。何が武器なもんか。
あれから逃げないと自分はとんでもないことになる。
殴られる、蹴られる、打ちのめされる。
追って来る限りは逃げなければ。
勝ち負けじゃない、とにかく逃げなければ。
と。
そして、あそこまで逃げれば助かると、
本気でゴールを捉えにかかった。
無我夢中で、駆けたーーー
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