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「臆病を自分の武器に変えて見せるの」
『先生』の、そんな言葉が鮮烈に浮かび上がる。
後ろから追って来る『奴』の姿を振り返りたくない『彼』にとって、それは困惑を伴った重責であったといえる。
勝つべきか、負けるべきか、それとも逃げるべきか。
『彼』は今、その決断を迫られている。
ーー高校最後の体育祭、最終競技のクラスリレー、優勝を一点差で争う接戦にあって、
『彼』はアンカーとして、トラックの上にあった。
自らの四肢をちぎれんばかりに躍動させ、砂を蹴り上げ身体を倒し、
すこしでもその距離を短く、すこしでもその時間を短くするために、
その一周400mの長円形のレースコースを、必死に駆けていた。
『彼』は、おそらくその学年で一番足が速い。
どこの部活にも、何の運動サークルにも参加していない『彼』であるが、
電車通学ができない、自転車が買えない程に家が貧乏であったために、
毎日片道10キロ程の道のりを、重量5キロ程もある鞄を担ぎながら走って学校に通っていて、
それがトレーニングとなり、陸上部、野球部、サッカー部、そのほかのどの部活と対峙しても引けをとらないか、あるいはそれ以上に基礎体力があった。
「『彼』はべらぼうに足が速い。」
それは、学年の誰もが認める事実であり、そして、紛れも無い真実でもあり。
もっと言えば、真実以上の真実でもあり、つまり『彼』は学年いちの快速男子であった。
しかし、『彼』にはどうしても勝てない…というよりかは、「勝たせてもらえない」相手がおり、
これまで『彼』は、一二年の体育祭、スポーツテスト、駅伝大会、あらゆるタイトルでその相手に勝ちを譲ってきた。
その相手というのが、ちょうど今、このレースにおいて『彼』を追い詰めている『奴』である。
『奴』はおそらくこの学年で「二番目」に運動神経がいい。
『彼』とは違い金持ちで、野球部に所属しており四番でエース、学校のスターで人気者。
運動においては、先ほど述べたタイトルにおいて常にトップを保っており、
周囲には「学校一の快速男子」と持て囃されている。
真実に一番足が速いのはこれも先ほど述べたとおり『彼』なのだが、
だが『彼』には、どうしても『奴』を倒して自分がスターになる、
偽りの「二番目」から真実の「一番目」に成り代わることができない理由があった。
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