1人が本棚に入れています
本棚に追加
古野は何となく、再び体を反転させて更に浜から遠く泳ぎ始めた。クロールで、息継ぎせずに進み続ける。古野は目をつぶり、無心で泳ぎ続けた。次第に鼓動が早くなり、もう駄目だと思ったところで古野は体を裏返した。
こんなに泳いでも尚、青い空は表情一つ変えることはなく、古野は黙ってそれを見つめた。大きな青い画用紙の上で唯一変わったところと言えば、カモメの配置くらいだろうか。
ふと、視界の上、北の方で何かが落ちていった気がして、古野は首を反らした。
白いシャツに、黒い短パン。
それは青のコントラストに、鮮やかに自分の目に入ってきた。
確かにそれは人のシルエットだった。
――嘘だろ
ばしゃりと体制を元に戻して古野は早る鼓動を押さえつけながら、落ちていく人、を見つめた。
ここから50メーターくらいの距離、だろうか。落ちていく人の顔までは見ることができないが、白い半袖に、黒い短パンをはいているのはわかった。何となく、男であることもわかる。
どのくらいの高さから落ちてきたのか知らないが、戦争中、海は中心ほど硬く、浜に行くほど柔らかくなると考えた人もいるという。もし、飛行機的な何かしらからその高度で落ちたなら、人たまりもないのではないか、と古野は懸念した。落ちるスピードも早い。
古野は再び海に潜った。
潜ってからすぐに、水のなかで半透明の気泡を無数に纏った人間が、落ちていくのが見えた。重力はあらゆる力を排除して、その人を海の奥深くに引きずり込んでいく。古野は焦った。予想以上に海が深い。
一度海から顔を出し、肺の空気を一新する。深すぎて古野の裸眼では見えないため、気泡が上ってくる場所を頼りにただひたすら潜った。
近づいていくと、白い脚がみえた。暗く、深い濃紺の海の中に、それはぼんやりと、しかし、はっきりと存在している。突き出た踝や、膝の形から、痩せていることがわかる。
腕が、伸ばされていた。
何かにすがるように、五本の指先は天を向いている。
深い静かな海の中は、光でさえも届かない。
死ぬなよ、お願いだから
伸ばされた手を、しっかりと掴む。両手からじんわりとした温かさが伝わってきて古野は安心した。
そのまま潜り、あとは息が苦しくなって無我夢中で白い半袖の男を抱き寄せた。
淡い光に向かって浮上していく。
死んでなくて、よかった
最初のコメントを投稿しよう!