第1話

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「行ってきます」 古野はいつも通り玄関でそう言って、ガシャンとドアを閉めた。とはいえ、引っ越したのだから、いつも通りも何もあったものではないか、と一人で思って学校のカバンを背負い直す。私立ではなく、公立なので、基本的にカバンは自由だ。古野は、使い古した赤い色のスポーツバックの側面についたポケットを右手でまさぐった。 あった、カギ 汗ばんだ手の内にそれはひんやりとした、小さな氷を片手で掴んだような感覚を与えた。ガリガリと鍵穴に差し込みくるりと回すと小気味よい音をたてて鍵がかかった。 カチリ 即席で脳に叩き込んだGoogleマップを思い浮かべながら、太陽の照りを真っ向に受けた黒いアスファルトへと、古野は足を踏み出した。 あれ。 ああ。 どうしよう。 終わったな。 古野はいつもの通り、冷静にそう思っていた。地図は頭の中に入れた。時間もたっぷりとった。携帯も携帯している。って、なんか変だなとひとりでに突っ込みを入れる。どこに行きたいかはわかるし、行き方もわかる。地図は少し見ただけだったが、記憶力には自信があった。事実、ここが逢坂、という地名で竜浜、という駅であることも、青風という電車に乗ればよいということもわかる。 古野は微かなため息に似た嘆息を漏らした。しかし、後悔はしても反省をしていないのは自身が一番よくわかっていて、それを改めようという自戒の念をだそうとしない理由も知っているから古野は胸がもやりとした。しかし、古野はそれすらも許せなかった。むしろ電車賃を忘れたことよりも、そのことの方が古野の気分をかきみだした。だから、古野は一連の感情と、そこに行き着くまでの事実を忘れようとした。気分のまま誘われるままに構内のベンチに座ると、木製のそれはミシリと嫌な音をたてた。 風が、後ろから吹いてきた。 海の香りを孕んでいる。 蝉がどこか遠くで鳴いていた。 7月初めに鳴く蝉は、時期尚早。 ふと、古野は確かな既視感を覚えた。 古野は、洞窟を思い出した。それは海とつながっていて、真っ暗な中を神秘的に照らしていた。足元は岩が突出している入り組んだ砂浜のせいで安定することはなかった。
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