家族

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家族

 赤、青、黄、緑、茶、白。世界は色とりどりだ。  丸、三角、四角、五角。世界は形でいっぱいだ。  可愛い、格好いい、不細工、怖い。世界は個性的だ。  無数の失敗、恥ずかしい出来事。今になって愛しい。  思えば全部自分らしかった。あと一歩僕に足りないところがあっただけで、完璧になんて案外簡単になれるものだったのかもしれない。  残された一日分の光。それを使って、目が見えなくなった時の準備をする。帰路の途中、点字の本や杖を購入して、それを持って父と母の元へ帰ろう。  認知症の母と、盲目になった僕を支えなくちゃいけなくなる父に、少しでも負担がかからないように、自分でできることは今の内から準備をやっておかなくてはいけない。  僕は急いで身辺の整理を始めた。長年住んできたこの部屋をある程度片付ける。身を軽くするためにいらない物は業者に頼んで捨ててもらう。同棲していた恋人が置いて行ったコップ。今までどうしても捨てられなかった。本当に未練たらしい。  一緒に選んだカーテンも、洋服もタオルも、化粧道具も。  ここには思い出が多すぎる。  それでいて幸せだった。  わずかな家具だけを残した部屋に向かって、出て行く際にお辞儀をした。  ここは僕が生きた場所。  二度と帰らない場所。  アパートの階段を下り、坂道を歩いた。坂の上から街を見下ろした。  春はまだ遠いが、温かい陽光が僕を照らす。  マダムと最後に別れたあの駅で切符を買う。もうここを使うことはないだろう。買った杖を、彼女と同じように持って改札口を通った。  電車に乗って長い旅に出た。  海も見え、遊園地の観覧車も見えた。  景色を眺めるだけでなんだかわくわくしている自分がいた。  これからやりたいことがある、それだけで十分楽しみだった。  これから。これからがある。  座席は満席で、僕はドア付近の手すりに掴まり立ちながら遠ざかる街を眺めていた。  誰かの母親になった僕の恋人。いつか僕を忘れて、きっと彼女は幸せになる。でも我がままを言うなら、ほんの少しだけ僕を思い出して笑ってほしい。それだけで君と過ごした時間は嘘じゃなかったって証明になるから。どうか、いつまでも元気で。  ぽつりぽつり佇む住宅街。やがて周囲はほぼ田んぼだらけだった。 「完璧というのは自分らしさでいられる自分のことを呼ぶのよ」  マダムは人生最後の一日を、こんな僕と過ごしてどう思ったのだろう。なぜ、僕を選んでくれたのだろう。今になってはマダムの気持ちを知る由がない。彼女は、自分と同じく病に侵されている僕に気づき精一杯生きる戦友として、時間を共有してくれたのかもしれない。  僕は人生最後の日、誰と何をして過ごすのだろう。  僕にはまだ時間がある。何も恐れる必要はない。  いくつもの駅に停車して、いくつもの長いトンネルを抜けた。 「シーユーアゲイン」  僕は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。別れを告げた街はもう見えなくなった。  八年前に出て行った街へ戻った。少しだけ駅内は栄えていて、観光スポットの案内板が豊かになっている。  誰にも見送られず、ひっそりと離れた場所。ここからは歩いて行ける。  道路に真っ直ぐ引かれた白線が薄れ、途切れ途切れにやっとアスファルトにへばり付いているつまらない道が続く。  ビルもマンションも見当たらない田舎街。  僕は足を進める。  懐かしい風景が広がってきた。  小魚が泳ぐ用水路。昔、網を使って魚を捕まえたあの通学路。  木々に囲まれた無人の家。ここで友達と肝試しをした。  悪戯をした柿木、不気味な神社、小さな八百屋。  風の吹く方向、匂い。懐かしい。  僕は少しだけあの少年に近づけただろうか。口調が強くて生意気で、でも真っ直ぐで正直で自分に嘘をつかない少年。  この鶏小屋の角を右に、ラーメン屋の角を左に、道をくねくね曲がってビニールハウスが見えたらもう僕の家が近い。  教師になった彼。僕みたいに自分に自信のない子を見つけ、しっかり支えてやってくれているだろうか。  心配せずとも彼なら大丈夫か。彼の言葉が、僕という人間をこうして歩かせているのだから。   次第に足が速くなる。額にかいた汗を風が乾かしてくれた。とても気持ちが良い。  誰かの家の塀の向こうで、木々の隙間に作られた、主のいない蜘蛛の巣が揺れている。  座敷。  君はどうしてあの日現れたのだろう。もし、僕にないものが手や足だったら、君は迷わずそのたくさんある手足を僕に譲ってくれただろうか。   優しい君は、どこで何をしているだろう。また会えたなら僕の肩の上においで。どこにだって連れて行ってあげるから。まだ君に恩返しの一つもしていない。僕に残っている、拭えない後悔はそれだけだ。後悔がなくなるまでまだ傍にいてほしかった。君の身を案じている。  僕もきっと君に恋をしていたのだろう。それを伝えたら、きっとまた嬉しそうな声をあげて笑うのだろう。  彼女の仕草の一つ一つを思い出して、僕は彼女の目で少しだけ泣いて、笑った。  そして、とうとう僕は家に帰ってきた。  僕は玄関前に立った。もう外と内の境目。最後に行ってきますが言えなかった場所。  辺りは夕焼けで満ちていた。もう家の電気がついている。  心臓が速く脈打つ。表現しきれないほどの緊張があった。  胸に手を当て、ふうと息をつく。  僕は人差し指でチャイムを押した。 「はい」  返事が聞こえた。ドタドタと重い足音が聞こえた。この歩き癖が誰のものかはすぐにわかった。  鍵の開ける音がして、ゆっくりと玄関のドアが開いた。  隙間から灯りが漏れ出る。この灯りはいつだって僕に安心を与えてくれた。  逆光で一瞬姿が見えなかったが、僕とその人は八年ぶりに顔を合わせた。  滲む視界の中、僕は泣くのを堪えて言う。 「ただいま、父さん」
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