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大切な人
あの少年に言われた通り、僕は自室の隅にある宝箱を開けた。宝箱はダンボールで簡単に作ったものだ。その中に名店で食事をした時のレシートや、水族館や遊園地、映画館のチケット等をしまってある。小さい時から思い出の品をこの箱に閉じ込めるのが好きだった。
高校時代に卒業前最後の授業で、自分に向けた手紙を書く、というものがあった。どういう意図だったのだろう、一度も見返したことのない手紙を、僕はその手紙を宝箱にしまっていたのだ。
拝啓、僕へ。
今、僕は無気力な状態です。やりたいことも安定せず、時間だけが流れていきます。
僕はたぶん、今幸せなのだと思います。良い人達に恵まれ、支えられ、父と母には一生かかっても返すことが不可能な大きな恩があり、友人からは共有した時間という、大切な宝物をいただきました。明日も変わらずこの日常が続いてくれたらという願いがあります。しかし同時に、この平凡な生活を抜け出して人とは違う生き方をしてみたいという冒険心が存在しています。贅沢で欲張りなのは自覚していますが、人というのは一つの欲求が満たされた時、更に高度な欲求を手に入れたいと思う生き物なのだと思います。
暇さえあればくだらないことを考え込んでしまうのが僕の悪い癖です。例えば、宇宙の果てには何があるのかとか、自分が死んだらどうなるのかとか、切りのないことを考えてなかなか寝付けない夜があります。大体こんなことを考えてしまう時には、自分に悩みがあったり将来に不安があったりする場合です。
母が、いつか僕を忘れてしまうのではないのか、明日の朝を迎えるのがいつも怖いのです。
記憶というものがなぜ存在するのでしょう。人間は他の生き物と違ってこんなに面倒くさいのか不思議で仕方がありません。それらをひっくるめて、全てがくだらないと、心のどこかで感じている僕は病気なのかもしれません。誰が創ったのかわからないこの世界に生まれてきた僕は、何かしらの意味があると信じたいです。僕の命が終わる時、答えが見つかることを信じて生きていこうと思います。
手紙はそこで終わっていた。この文を書いていたことは今までずっと忘れていた。僕はいつかこの手紙の返事をする時がいつか来るだろう。
両親が隣にいる居間の明かりが襖の隙間から漏れている。八年分を語るには一日では到底足りない。帰った僕を父は受け入れてくれた。身に起きた全てを包み隠さず話した。これから自分の身に起こるだろう失明のことも。時間はかかったが、和解することができた。
「よく、帰ってきた。こっちに来い」
父は怒った顔をして、それだけを言って部屋を出て行く。その背中は丸みを帯びて、一回り小さくなったように見えた。
父の向かった一階の奥部屋に、母さんがいた。窓辺の座椅子に腰をかけてぬいぐるみを抱っこしていた。まるで子どものように更に小柄になっている。
母は僕の方を見て、微笑んだ。父の話では、もう誰のこともわからなくなっているらしいが、時折思い出すことがあるという。玄関の鍵を閉めっぱなしにしているのも、以前母が家を出て迷子になり大変だったかららしい。
それでも母は一言だけ僕に言った。「おかえり」と。
夜が更けて、僕は父と母の寝室の隣で布団を敷いて横になる。襖の隙から電気の明かりが差し込んでくる。その淡い色を見ながら眠りについた。
それが、僕が最後に見た光となった。
翌日の朝には目が見えなくなっていた。僕と父が覚悟をしていたことだ。誰かが傍にいなければ不安は莫大だっただろうが、父が手を握ってくれたのでそれほど暗闇に恐怖は感じなかった。
初めこそ色々不便なことはあった。何度も転んで怪我をしたし、家の中を壁伝いに歩くのだけで精一杯で、しばらく外には出られなかった。それでも住み慣れていた家の構造は今でも感覚が覚えていて、数日で一人歩けるようになった。母の軽やかな足音は、自分はここにいるから大丈夫だとアピールをしているようで安心した。
杖の使い方や点字もやっとの思いで覚えた。どれもこれも独りじゃできないことだった。というのは、息子が帰ってきたと父は近所の人に伝達していき、僕の目が不自由だと知った彼らは何かと世話を焼いてくれたからだった。お惣菜を頻繁にくれたり、家事を手伝ってくれたり、皆優しい人だった。母を貶していたような人もいない。とても温かい場所に変わっていた。
身体障害者手帳を所持する僕は、盲導犬訓練施設に通うことにした。そしたら買い物にも行けるし、父の負担を減らすことができる。盲導犬のハーネスを握り、ちゃんと歩けるようになるまで練習することはなかなか難しかった。
担当の盲導犬訓練士は若い女性だった。姿はもちろん見えないが、自己紹介と声でその容姿を想像する。
当初、歩行訓練は厳しくて、きついことを言われたこともあった。でもそれは僕が転んだり交通事故に遭ったりしないために真剣にやってくれたのだと、後に彼女は申し訳なさそうに語った。
それから何年経っても交友関係は変わらなかった。目が見えなくてもできる仕事を探してくれたし、引きこもりにならないように頻繁に外へ連れ出してくれた。おかげでくじけることは一度もなかった。
僕はいつの間にか惹かれていて、彼女も懸命に生きる僕に好意を持ってくれた。しかし僕に彼女が支えることはできない。目が見えなくなってからは恋人を作ることはおろか、結婚のことなど考えてもいなかった。こんな僕が誰かの夫になって、誰かの父親になっても良いのだろうかと自問自答を繰り返していた。
それでも声や言葉、触れる手の感触、傍に寄った時の匂い。それらが心地良くて、この人を大事にしたいという気持ちが募っていった。
互いに気持ちを隠したまま数年が過ぎる。彼女は、僕が預かっている盲導犬のララに会うと口実をつけては毎日のように家へ遊びに来ていた。母は彼女のことが気に入っているらしく、にこにこと懐いていた。
「そんなにララが心配かい? 君は若いんだから友達や恋人と遊んだ方が良いのに」
「そうですね、あなたがララを可愛がりすぎておやつをたくさんあげないか心配です。太ったら健康を害しますから。それに、私に恋人がいないことはご存知でしょう? 意地悪なんだから」
彼女が僕をギロリと睨んでいることがなんとなく伝わってきた。
「あなたこそ、ララが恋人だなんて冗談言って。ちゃんと人間の女性と交際しないと、駄目なんですから」
「僕はもう三十代後半だし、それに、誰かを大切にできる勇気もないよ」
すると彼女は僕の手の平を指先でつついて、点字をゆっくり書いていった。柔らかい指は僕に想いを伝えようと必死だ。
「何て書いたかわかりますよね?」
僕は答えられずに黙ったままだ。
「わからないならもう一度書きましょうか? あなたのために点字を覚えたんですから」
そう言って彼女はもう一度僕の手の平に指を乗せた。その瞬間、彼女の手を握り締めた。わからないふりをしようか、答えを当てようか、正直僕は困っていた。
「僕は、君を幸せにできる男じゃない」
彼女からもらった点字は、「あなたが好き」だった。もう気づいていたその気持ちを、せっかく伝えてくれた好意を僕は台無しにする選択をした。
「幸せにできるかどうかなんて勝手に決めないでください! 私が、幸せになれる自信がある、それだけです」
荒々しい声を出した後、彼女は僕の肩に頭を置いた。
シャンプーの匂いのする髪が頬に当たって、くすぐったかったのを覚えている。どうしようもないほど、愛してしまっていた。
それから交際を始めることになった。彼女の両親は僕のことで猛反対をしたらしいが、直に会ってみると僕の人柄を気に入り、交際を認めてくれた。
数年が経ち、僕は彼女に指輪を渡す。手探りで彼女の左手の薬指にはめてみた。
「僕と、結婚、してください。駄目、ですか?」
しまらないプロポーズで、彼女は驚いた後に大笑いをした。
「駄目だなんて、そんなことを聞くならプロポーズしないでよ。私に失礼よ。でもそうね、、あなたじゃなきゃ駄目だって決めているんだから」
そう言って彼女は照れたように僕の鼻先を強めにつつき、キスをしてくれた。
諦めていた夫婦という生活を、僕は送ることができた。子どもにも二人恵まれて、まさに幸せだった。一つ贅沢を言うのなら、彼女達はどんな顔をして目の前で笑っているのかを、目に焼き付けてみたかった。
あれから時間は経った。
今、僕の右手を妻が握っている。僕に妻の顔を見ることはできない。見たことがないと言った方が正しい
僕の口に酸素マスクが付けられている。僕の右手を握る柔らかい手の主は、二人でよく聴いた曲の鼻歌を歌っている。
だいぶ年をとった。
あの手紙の返事をするなら今だろう。
拝啓、君へ。
君はきっと、幸福で満たされていることに気づいていない。
時にその幸福は、君を疲れさせてしまうこともある。
君はその疲れで自身がボロボロに感じているのかもしれない。思春期とはそういうものだ。
しかし、過度に神経を使っていたら君は気疲れをしてもっとボロボロになってしまうのではないだろうか。
両親、友人、周囲の人からもらった幸福を、全て返そうと必死にならなくて良い。君は気づかないうちに幸福を与えている。そして彼らも気づいていない。幸福は知らない間に共有し合っているものだ。きっと自分の命が終わる時、生きていた時間を振り返ることができる。
日常から抜け出したい気持ちもわかる。でも日常も捨てたもんじゃない。人生が落ち着いたものになるのか、騒がしいものになるのかは全部君次第だ。
必ず君の存在には意味がある。この世界に何かを残すこと、それだけでも君が生きていた証が残る。
誰か一人を愛し、誰か一人にでも愛されれば、生きる意味になる。
そうは思わないか?
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