悪夢

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悪夢

睡眠時間が約九時間。  起床時間が約十五時間。  合計二十四時間。夢の世界と現実の世界を行き来している。  夢の世界は何でも可能だ。この間は背中に羽も生えてないのに空を飛んだ夢を見た。  夢はその人の知能程度を表すらしいが、所詮僕はその程度の知能だ。  やっぱり現実世界の方が繊細だ。夢は曖昧でもやもやして、あまり美しくない。  美しいと思えるのは、目が光をとらえ、ちっぽけな僕の脳に映像を伝達するからだ。レンズにあたる水晶体、光を屈折する角膜、光を通す窓、網膜。これがまた複雑なしくみになっていて、よく上手くできているなと感心するくらいだ。  生まれてから実に色んなものを見てきた。そこから学んだことは数知れない。もちろん、いくつかの汚いものも見てきた。眼球は身体の中で一番世話になっている部分だと思う。  いや、一番は心臓か。休まず脈打っているから。  とにかく、目は大事だ。目は口ほどに物を言うとことわざがあるけれど、あれは本当だ。  好きな女の子の前ではパッと大きく目を開いて、怖い時はぎゅっと目を強く閉じて。僕はこの目と共に成長してきた。  目が見えなくなれば、きっと不便なことが多くなるだろう。点字も覚えなきゃいけないし、観たい映画や漫画や小説、テレビ、雑誌、新聞。やりたかったゲーム、パソコン、全部できなくなる。大切な人の顔も、二度と見られない。  それは、自分がまるで深海にいるような気分になるだろう。  ある日突然、悪夢がやってきた。何の前触れもない悲劇が、この先の人生を大きく変えることになった。  その日はいつものようにテレビ番組を眺めていた。寝起き頭も整えず、朝食がわりに煙草をふかして時間を消費させていた。偶然出演していた好きな女優にしばらく僕は釘づけになっていた。  すると、女優の綺麗な顔がぼやけ始めたのだ。  自分の目に異常が起きたことにすぐに気づいた。自慢じゃないが、僕は子どもの頃から視力が良かった。ゲームは何時間も夢中になってやっていたしパソコンもよく使っていたが、視力は落ちることなく正常を保っていた。  二十六歳の冬。抜群の視力だけが取り柄の僕も、いよいよ目が悪くなった。  近視か乱視か、目を細めればどうにか周りは見える。多少目つきは悪くなっても生活上差支えなかった。金も惜しくて眼鏡も買わず、ただ平凡な日々を送っていた。  しかし、世界はぼやけていく。それも進行は早かった。乾燥がひどくて市販の目薬を一日に何度もつけた。ブルーベリーを買ってたくさん食べた。効果はちっとも現れず、ほぼ視界は狭まった頃になって、貴重な金をようやく診察代に注ぎ込む決心をした。できるだけ生活費を削りたくないという頑固さが、遅れの原因だった。   街外れにある眼科医院で目玉を検査される。気持ちの良いものではない。年齢によるものだとか、遺伝によるものだとか診断されて、目薬を処方されて、眼鏡を買って終わるものだと思っていた。  しかし現実は、僕の予想を残酷に裏切った。  正面に座る医師の顔が曇る。眉間にしわが刻まれている。看護師は場が悪そうにうつむいていた。  診察室の空気が重い。例えるなら受験を間近に控えた教室のような緊迫感だ。 「どうして、症状が現れてから時間を置いてしまったんですか」  少し苛立ったように医師は口を開いた。苛立っているのは僕の方だ。診察までに何時間も待たせられたのだから。 「あなたの病名は若年性緑内障です」  へえ。  まるで他人事のように僕の感想はそれだけだった。 「ちらっと聞いたことはありますが、でもそれって治るんですよね?」  そう訊いてやると、医師は僕から目を逸らした。 「治療方法はあります。点眼薬、レーザー……しかし、はっきり申し上げてあなたの病気は末期に近い。受診するまでに時間が立ちすぎて、だいぶ進行しているのです」  抑揚のない、冷たい医師の声に身体が凍えそうだった。僕は身に起きた深刻さをやっと理解できたのだ。 「それって盲目になるってことですか?」 「残念ですが、ここまでになると……」  僕のこの二つしかない眼球が、使い物にならなくなる、そう宣告された瞬間だった。映画も漫画も小説も雑誌も、ゲームもパソコンもできなくなる。自分の顔も見られなくなる。どうやって髭を剃る? どうやって髪を整える? 歳をとっていく僕の顔はどうなる? 僕の脳内は混乱でいっぱいだった。 「出直します」  僕は逃げるように医院を離れ、別の医師にかかることにした。  そこでも同じ検査をされて、同じ診断をされた。  僕はまた逃亡する。  三軒目の有名な大学病院でもそうだった。僕は観念して逃げるのをやめ、おとなしく医師の話を聞いた。  良い物を食べて成長し、良い大学を出たような聡明な若い男性医師だった。彼は真剣に説明をしてくれるのだが、僕は案の定うまく呑み込めない。専門用語を多様に用いて話してくるからだ。お前の目の前に座っているのは試験監督じゃない、一人の患者だ。  無反応な僕に対し、終いには呆れ顔をされた。他人事だと思っているのだ。そんな顔を見せないでほしかった。僕は今、絶望で満ちているのだ。お前なんか間近で見るより美人な女医が見たかった。  文字通り、僕の頭は真っ白。お先は真っ暗。モノクロに染まっていく自分の姿が脳裏をよぎる。やがて灰となり風に吹かれて消えていった。  廃人みたいになった僕は、背を丸くして病院を出た。  試しに瞼を閉じて歩いてみる。いずれやってくるであろう完全な暗闇を疑似体験する。  目が見えなくなったらずっとこうやって生きるのだ。年老いて死ぬまで、ずっと。  聴力がやけに働く。車のクラクション、足音。すぐそばを通る人の気配。男性なのか、女性なのか、老人なのか、子どもなのか。その姿は見てみないとわからない。  ゆっくりと瞼を開く。すっかり欠けた視野。滲み出す世界。気づけば僕は泣いていた。他人からすれば、大の男が泣きながら歩く光景は傑作だろう。情けないだろう。僕は、恥を忘れてしまうほど、いやそれ以上悲しくてたまらなかった。  まるで洞窟の中を彷徨っているように、とてつもない恐怖心が僕を襲う。手探りでやっと辿り着いたアパートの部屋。  当たり前に見えていた世界がある日、突然見えなくなる。今さらになって平凡に過ごしてきた日々が愛しい。五体満足で生きてこられたなんて、奇跡に近かった。  心なしか頭が痛い。病気と聞かされてからたまらなく頭が重い。身体が怠い。病は気からというが、本当だ。根本的治療をすれば、ほんの少しだけでも楽になれるだろうか。 「読める、読めるぞ! はは!」  僕はポストに入れられた電気代やガス代や家賃滞納の請求書を部屋の中で読み散らかした後、畳の上で大の字に寝そべった。  部屋にあるのは最低限の生活必需品。この安いアパートの家賃でさえ滞納しているというのに。仕事も先日クビになり、新しい職を探している最中だというのにどうしろというのだ。  そう、全部僕が悪い。自業自得。  誰かにお金を借りるという発想は乏しかった。プライドを肥やして誰にも頼らず今まで生きてきた。そのせいで友人と呼べる者は少なかった。こんな時ばかり縋り付く図々しさはない。頑固さが身を滅ぼして後々後悔することはわかっていたが、それでも僕は動けなかった。  一歩でも動いたら、両の眼窩から宝石が落ちて、美しい破片を散らす。そんな想像をした。  恐ろしくて目を閉じた。こうしていれば少なくとも宝石はなくならない。しかし、瞼の下でゆっくりと腐っていくのだろうか。  こんな現実など見たくない。いや、もう見えないだろ。何を言っているんだ馬鹿野郎。  時計の針の音だけが部屋中に鳴り響く。人の声などしない。どうしようもない孤独感。寒さのせいもあるが、身体の震えが止まらない。こんな時、誰かが傍にいてくれたらどれだけ心強いだろう。  何に祈ればいい。  神か、悪魔か、閻魔大王か、人間か。 「母さん」  僕は母を呼んでみた。何度も何度も、返事が返ってこないとわかっていても、呼び続けた。  僕はいつの間にか眠ってしまった。何も感じない。  夢の中で母が僕に会いに来てくれた、気がする。 「こら、好き嫌い言うんじゃありません。立派な大人になれないわよ」  ブロッコリーを食べ残した幼い僕を叱った。  好き嫌いを言ったせいでろくな大人になれなかったのか、もしあの時ちゃんとブロッコリーを食べていたらこんなことにはならなかったのだろうか。  果たしてこの人は母なのだろうか。  夢の中の母は目や鼻や口が付いていなかった。それなのに笑っているとわかったのは身体を大きく揺らし、どこからともなく不快な甲高い笑い声をあげていたからだ。  恐ろしくて怪奇的で僕は悲鳴をあげる。黒い道をひたすら走って逃げる。  そして暗闇に独り取り残されて永遠に蹲る、そんな悪夢だった。  次に目が覚めた時、僕の元にやって来たお客さんは母ではなかった。  神でも悪魔でも閻魔大王でも人間でもない。  それよりも遥かに存在は尊くて小さいものだった。
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