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三分間
目を分ける。
その不可解な発言を耳にしてからどのくらい時間が経過しただろう。
そうだな、たくさんあるなら一つや二つくらい。
僕は我に返り慌てて首を振った。
強欲な人間がする、浅はかな考え方をほんの一瞬してしまった。
仮に、お金に例えてみたらどうだろう。
もし僕が億万長者になったら、果たして他人にお金を分けてやりたいと思うのだろうか。
いいや、たぶん思わない。
貯金をして生活資金にしたり、結婚資金にしたり、老後に使ったり、自分の子孫のために残してやりたい。
蜘蛛がくれると言ったのは目。身体の一部。お金で買えるなど、そういう問題じゃない。自分の一部、生きるために必要な器官だ。
ましてや蜘蛛の目。人間に移植できるはずない。
それに、彼らの世界は人間より過酷に決まっている。
獲物には逃げられ、天敵もいっぱいいる。捕まったら食われておしまい。目を失うことは蜘蛛にとって致命的で、死に直結するのだ。だからそれに必要な数だけの目があるということ。
「有り得ない話だ。慰めのために言ってくれたのならありがたい。でも、どうして僕に大切なものをくれると言うんだ? お前とはついさっき初めて出会ったばかりだろう?」
人間以外の生き物と会話をしたのも初めてだが、初対面の相手にどうしてそこまで尽くそうとするのか理解しがたい。
僕が人間で恐ろしいからか、だから無理にそんなことを口走ったのか。
なんてことだ、怯えさせるつもりはなかった。普通に会話を楽しんでいただけなのに。鬱憤を晴らすために踏み潰されると思われているのか。
僕の中で罪悪感が芽生えた時だった。
「あなたが困っているからですよ」
単純な返答。なぜそんなことを訊くのだろうといったように蜘蛛は頭を傾げていた。
横断歩道を渡る時に手をあげるみたいに、人と会った時に挨拶をするみたいに、蜘蛛はまるで一般常識とでも言うように、僕に目を分け与えると言う。
僕は焦りを隠せずにいた。
「からかっているんだろ? そんなの不可能だ」
「不可能なことをわざわざ提案しませんよ。人間が進化していったように、私達も進化しただけのこと。簡単な話ですよ。現にこうしてあなたとお話をしているじゃありませんか」
乾いた唇を舐めた。
口腔内が乾燥している。
この小さな生物に恐怖を感じた。
蜘蛛はうふふと悪巧むように笑う。僕は石像のように固まったまま動けなくなる。それでも思考だけは最大限に働かせる。
地球はだいたい四十六億才。
その間に生命の連鎖がいくつも起きて、偶然父と母が生まれ、偶然出会い、偶然僕が生まれた。
人間の祖先は猿だというけれど、実際にはまだ解明できていないらしい。
ある説はゴキブリからだとか、魚からだとか色んな説がある。
目がこんなことになる前、興味を持った僕はネットで調べたことがあった。
蜘蛛。こいつも僕と同じ連鎖が重なって偶然誕生したのだ。進化をして不思議な力を手に入れたとしてもおかしくはない。
だからって、どうして僕にそこまでする。
「あなたは私のことをきれいと言ってくれた。そのお礼なのです」
僕は目を瞬かせ自責する。そんなことは言っていない。蜘蛛は聞き違いをしてまだ喜んでいる。それにしたって納得できない。だんだんとその純粋さに怒りを覚えてきた。
「お前は他人にきれいと言われたら自分の身体の一部を差し出すのか? 異常だ、それはおかしな話だよ。それに僕ははっきりお前を見てはいない」
「目が見えるようになったら私をちゃんと見てもう一度言ってほしい、そういう願望も少しはあるのですよ」
これ以上誤解が長続きしてはいけないと、僕は先ほど言った本当の言葉を教えてやる。
「お前は勘違いしている、僕は……」
「It′ll be over in a few minutes」
蜘蛛は突然英語を発した。発言の間違いを指摘しようとした僕を、一瞬にして黙らせた。驚くことにその発音は綺麗だった。まるで英会話教師だ。 蜘蛛は英語まで話せるのか。悔しいことに何て言ったのかもわからない。
「二、三分で済みますよ、と言ったのです。たぶんですけどね。何しろ試したことがありませんから」
蜘蛛は混乱する僕にお構いなしで淡々と話を進めた。
「所詮は蜘蛛の目、いつまで続くか保証はできません。それでもよろしいですか?」
「よろしいですかはお前の方だ。そんなことをしたらきっと後悔するぞ」
「目が見える間、あなたはご自分がやりたいことをやればいいのですよ」
「それでお前に何のメリットがある? 人間を憎んでいるくせに」
「ちゃんと私を見て頂き、もう一度きれいと言ってくれること。それがメリットです。私にとって目の一つや二つ、どうってことないのです」
「そんなこと、他を当たればいくらでも言ってくれる奴がいるはずだ」
「私は、あなたに言われたいのです」
「どうして?」
「どうしてもです」
僕は何も言えなくなってしまった。
感謝、喜び、申し訳なさ、哀しみ、不信感、希望。色々入り混じったこの感情をどうすればいいのかわからなかった。僕は僕が思っているより最低な人間だ。口では拒否しているのに本当は口から手が出るほど使える目が欲しい。
蜘蛛は何も言えなくなった僕を見て悟ったらしく、話を続けた。
「それでは二、三分目を閉じていてください。決して開けてはいけませんよ」
もはやこれが妄想ではないことに気づいた。現実以外にこれほど胸が痛むことはない。
しかし、いくら進化したとはいえそんな非科学的なことができるわけがない。ただでさえ蜘蛛が口を聞くなど信じがたいのだから。
正直僕は疑っていた。ただ蜘蛛があまりにも懸命に僕を救おうとしていることに心を打たれた。だからこそ、僕は頷くしかなかった。
「ああ……。そうだ、名前くらいあるんだろ?」
ずっと蜘蛛と呼んでいたら失礼な気がした。一応雌なのだから。
「ネコハエトリグモ、座敷鷹、人間は私達をそう呼称します。私達個々に名前はありません」
「じゃあ、座敷って呼ばせてもらうよ。座敷わらしを知っているか? 幸福を運んでくる妖怪なんだ」
座敷は生まれて初めて名ができたと嬉しそうにしていた。僕の一言一言が彼女を喜ばせている。なんて純粋な蜘蛛なのだろう。最初には、事実ひどい言葉を投げたというのに。
彼女を騙している罪に苛まれている頃には、もう取り返しがつかなかった。
「さあ、目を閉じて」
僕は目を閉じた。
三分間。
世界ではその間に何が起こっているのかを夢想する。あっという間に感じるだろうけど、こうして目を閉じているととてつもなく長く感じる。
カップ麺にお湯を注ぐ。三分後、出来上がる。
三分クッキング。簡単に美味しい料理が出来上がる。
三分間スピーチ。緊張で心臓がバクバクだ。
重症患者が急変する。三分後、静かに息を引き取る。
妊婦が分娩室で泣き叫ぶ。三分後、赤ん坊が産声をあげる。
初めまして。
さようなら。
また会いましょう。
二度と会わない。
愛しています。
消えてしまいたい。
おめでとう。
大嫌い。
楽しかったよ。
ありがとう。
この時間だけで、世界の流れは進んでいく。想像しても尽きない。
僕にとっては蜘蛛に目をもらう三分間。
こんな話、一体誰が信じてくれるだろう。
「ゆっくり目を開けて」
座敷の合図でゆっくり目を開いた。
「具合はどうですか?」
座敷の声が聞こえる。
聞こえた方に目を移す。やっとはっきり見えた。
眩い景色の中に一匹の蜘蛛が佇んでいた。
小さくて、ふわふわしていて、ビー玉のような青く美しい目だった。
この瞬間、僕は、この蜘蛛を心の底からきれいだと思った。
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