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恩人
いつからこうなったのだろう。どこで、どうやったらこうなるのだろう。そう思えることはいくつもあった。
母の病状は、いつどんなきっかけで発症するかわからない。
あれは、僕が実家で迎えた最後の春の朝だった。
まだ六時を回っていない時だ。母は突然僕を叩き起こしてこう言った。
「桜を見に行こう」
唐突な申し出に困り、眠かった僕は断った。
日曜日だったけれど父は仕事でいない。二人きりで出かけるなんて嫌だった。出かけるなら三人じゃなきゃ駄目だ。
発作の対応は父の方が上手だ。
母はどうしても行きたいと駄々をこねた。
僕は顔も洗わず、朝食も食べず、母の我がままに仕方なく付き合わされた。
僕はタクシーの助手席に座り、流れるラジオを聞くだけだ。
母は楽しげに運転手としゃべる。夜中も誰かと長時間電話していたのに、疲れていないみたいだ。
話題は耐えない。ほぼ独りで楽しげに話すだけ。
僕を見てくれていない気がした。寂しくない、と言ったら嘘だ。
慣れてしまえばなんてことはない。
桜を見に行く途中、行きつけの衣料店に寄った。
「これが欲しいわ」
決して安くない値段の服を母は欲しがった。黄色の花柄のワンピース。母にとても似合いそうだ。
だけど財布の中身は使い過ぎ防止で父さんが管理していた。
「ね、良いでしょう?」
ねだる母があんまり可哀想だったから、日頃の感謝も込めて、ちょっと無理をして高い服を買ってあげた。
プレゼントをしたら母さんは、とっても喜んでくれた。太陽みたいな人だった。
とても病気には見えない。いや、この朗らかな性格が病気のせいだと思いたくなかった。
さっそく花柄のワンピースに着替えた母は、自分の母親かと疑うくらい綺麗だった。
桜の木が並ぶ公園は、人で賑わっていた。
ブルーシートをひいて会社員らしき人がカラオケ大会を開いていた。
「混ぜてもらいたいなぁ」
乱入しようとする母さんを引っ張って、ソフトクリームを食べよう、と言う。
桜色のソフトクリームを美味しそうに食べる母。
「父さんには内緒だよ」
「はい、お父さん」
「僕はお父さんじゃないよ」
母は元気よく頷く。膝の上に花びらが落ちた。風が吹くたび、花びらが宙を舞う。
母は花びらを捕まえようと必死だ。
手に取った花びらを自慢げに僕に見せてくる。
良かったね、と僕は母を褒める。
「大きくなったね」
母が背伸びをして僕と身長を比べる。
「百七十六あるよ」
「おんぶしてあげようか?」
母は腰を曲げて僕をおぶろうとする。
「身体、壊れちゃうよ」
「じゃあ、おんぶして」
恥ずかしかったが、人目をさけるようにして代わりに僕が母を背負った。
思ったより軽かった。
確かにスリムな人だけど、ここまで軽いとなるとなんとなく悲しかった。
心配をよそに、母は僕の背中ではしゃぐ。
気づかれないように、悟られないように、僕はそっと泣いた。
ご近所とのトラブルもあった。その間には、父か僕のどちらかが入って謝罪をする。
「頭がおかしいんじゃないの?」
そんな不人情な悪口が飛ばされることもしばしばあった。
あんたに何がわかる。
母親を馬鹿にされて怒らない息子はいない。
殴ってやろうと、何度手が出そうになったことか。
そうなると一番困るのは父だ。
父は僕達を愛してくれた。
僕には厳しいけれど、母には甘かった。
「好きな女を守るのが男の役目だ。例え、いつかその人に忘れられてもな」
父は口癖のように言っていた。格好の良い父親だった。僕は本当にこの人の息子なのかと疑うくらい立派だった。
街中のレストランの厨房で働く父は、懸命に家庭を支えてくれている。
母の治療費だってそうだ。だから僕もアルバイトをして手助けをした。
どうしてだろう。
僕は家族が好きだった。愛していた。なのに、どうして逃げてしまいたくなるのだろう。
恋人とのことだって、慎重に段階を踏んで、皆で話し合って、幸せになる方法を考えられるはずだ。
どうして、間違いの方向に進んでしまうのだろう。
たぶん、一時の感情と思い付きの行動だった。まだ、子どもの癖に。誰よりも早く一人前の大人になりたかった。急ぐ必要もなかっ
たのに。
公園には、日が沈むまでいた。
母が夜桜を見たいというから、ずっと夜を待っていたのだ。
スポットライトに当てられた桜が格別に美しかった。
母がか細い手で僕の手を握ってきた。
「お父さん」
寒いのかと思ったが、母は僕が聞きたくなかった言葉を静かに呟いた。
「ごめんね」
その意味を知らないふりをして、僕は黙って手を握り返した。
「何がだよ」
「お母さんがもっと強かったら、あの子も辛い思いしなくて済んだのにね」
「だから何で」
胸にくるものがあった。心臓を握り潰されるような苦しさに襲われる。これ以上、何も言って欲しくなかった。何も聞きたくなかっ
た。ただ今は隣で桜を見られればそれだけで良かった。でも母は僕を父だと思って言い続ける。
「あの子のこと、よろしくね。私達の大切な息子だから。一番、幸せを願っているわ」
か細い手が力強く、温かかった。命の灯を感じた。
「もう、いいって」
吐息のような声が出た。
これ以上、言葉はいらなかった。
抑えなければと思うのに、勝手に涙が込み上げてくる。
スポットライトから顔を背ける。
泣いてたまるかという意地からだった。
母の前だけでは泣かないようにしていた。
辛いのは、母の方だから。 泣くならば、絶対にばれてはいけない。
母は僕の髪を撫でた。瞬き一つで涙が零れそうなほど、泣くのを堪えているというのに、どうしてくれる。
瞼が痙攣して、目から次々に水が出てくるではないか。
母親は、子の変化に敏感に気づく。母性本能が働くのだろう。だから病気になっても僕が思い悩んでいることを感じ取っている。
「寒いね」
母がぶるっと身震いした。
「寒いね。そろそろ帰ろうか」
僕は母の手を引いた。
いつまでこの時間が続くのかわからない。
でもできることならば、生きている間ずっとこうしてやりたかった。
しかし成長するにつれ、自尊心、自立心がどうしても芽生えてくる。親から離れたいという意志が強くなってくる。それは反抗期
だ。父に逆らうこともあったし、意地を張って母が作ってくれたご
飯を残したこともある。一人で何でもできるという自信。母の病気と向き合うという不安。
だから彼女を言い訳にして逃げることを選んだ。
子どもの自分を捨て、大人になった瞬間だった。
父は好きな女を守るのが男の役目だと言った。だから彼女を生涯かけて守ることが、大人の男になったと両親に証明できるのだと
思っていた、それなのに。
生まれてきてこれまで注がれてきたもの、まるでペットボトル一杯の水が全部零れてしまったかのように、僕には何もなくなった。
空っぽになった。
代わりに詰め込むものさえ見つからない。
路頭に迷った捨て犬みたいだった。
彷徨う盲目の野良犬。
諦めていたけれど、そんな僕を拾ってくれた人や物はたくさんある。
絵に、小説に、恋人に、マダムに、友人に、あいつに、一匹の不思議な蜘蛛に。背中を押してくれた人達に恩を報いるために、僕は決めた。両親に会うと。
「これは誰ですか?」
アルバムを一冊実家から持ってきていた。それを久しぶりに僕は眺めていると、座敷が珍しく巣から離れ、ぴょんと僕の膝に飛び
乗って写真を覗き込んできた。
「母さんだよ」
これは夏祭りの際に撮ったものだ。
まだ二歳くらいの僕は母に抱えられ、ヒーローもののお面を被せてもらって林檎飴を舐めていた。
「母さんとは、どんなものなのですか?」
座敷は妙なことを訊いてきた。
「君にはお母さんがいないの?」
「あたしは赤ん坊の時から独りで生きてきたのですよ」
そうか、座敷はずっと独りぼっちなのだ。悪いことを尋ねてしまった。
お詫びに僕は母という生き物を教えてあげた。
世界で一番怖い人。
たまに鬼のような形相で怒るし、赤ちゃんみたいに泣いて困らせてくる。
それでも、良い匂いがして優しく包み込んでくれる。
十か月も僕をお腹に入れて、薄く温かい膜で包み込んで色んなものから守ってくれた。
そして光を見せてくれ、僕に数え切れないほどのものを与えてくれた。僕がここにいるのも、その母親という存在のおかげだ。
「では、父さんとはどんなものなのですか?」
「父さんは……ええと」
写真を見せて説明してやろうと思っていたが、父が写っている写真が一枚もないことに気づいた。
父は、僕と母を撮影するのに夢中で自分が写るのを忘れてしまったらしい。
僕はくすっと笑った。
父は僕の競争相手。世界で一番憧れている人。
幼い頃からなんでも競ってきた。かけっこだったり、縄跳びの飛べる回数だったり。どれも父に勝った試しがない。
悔しかったが、いつか追い越してやろうという目標だった。
好き嫌いの意見も合った。父が枝豆好きなら、僕も好きだった。
父が魚嫌いなら僕も嫌いだ。
だんだん似てきたねと色んな人に言われるのが嬉しかった。誇らしかった。
高校受験に苛々してつい怒鳴り合った日もあった。
良き喧嘩相手であり、よき一家の大柱だった。
「やっぱりわからないです」
説明しても座敷は理解できないみたいだった。
他にどんな教え方をしてあげれば良いのか困った。
外国語を教えてやるよりももっと難しいかもしれない。
「なんて言えばいいんだろう……。早く言えば、大切な人達だよ。僕にとっては」
「大切な人、というのは恋愛感情なのですか?」
これにも困った。
愛にも種類があり過ぎる。
恋愛、友情愛、自己愛、家族愛……。
愛をどう説明しようか、僕は考えた。
「とにかく、なくてはならないものなんだよ」
こう結論づけた方が一番わかりやすいと思ったが、やはり座敷は首を傾げていた。
「人間は難しいですね」
座敷はどういう感情で僕の傍にいるのだろう。もしかしたらそれが愛かもしれないし、ただの興味本位なのかもしれない。
考えるのをやめて、僕は荷物をまとめ始めた。
実家に帰る運賃を確かめる。ぎりぎりの金は持っていた。
両親と話し合おうと、決めた。
もし、また家族として戻れるならば、長年暮らしてきたこの街ともお別れだ。地元に引っ込んで職を見つけて、残された時間をのん
びり生きよう。
元々、都会の地は向いていなかったのかもしれない。
人は多いし呼吸しにくい。
恋人とならどこへだって行けると浮ついた考えをしていたけれど、目的がないままここにいる理由はもうない。
もう、独りは嫌だ。
寂しがり屋で弱虫な男だということは自覚している。
でもまた誰かと生きることを望むくらい許されても良いんじゃないか、今はそう思える。
ただ、母が僕という存在を覚えていてくれているかが気がかりだ。
「お別れですね」
その一言が、部屋の空気を一変させた。僕の動きが停止する。
声の主を目で辿る。
主はいつの間にか僕から離れ、窓枠に乗っかっていた。
「どうして?」
「あなたがこの部屋から出て、二度と戻らないということは、やりたいことをやって満足したということです。私はもう必要ないはず
です」
「何言っているんだ。一緒に行こう」
この恩人と出会って四日が過ぎた。
緩慢と経過した四日間は不思議な出来事がたくさんあった。この短期間で自分の心が変わるなんて思わなかった。人は変われると
知った。
僕らはずっと前から、何年も前から過ごしていたように感じる。
「たった四日間で僕は変われた。君が現れなかったら本当に野垂れ死んでいたかもしれない。後悔を抱えたまま生涯を終えていたかもしれない。ほら、まだ絵も完成していない」
数年ぶりに描き始めた絵はあと色塗りをして完成だ。家々の屋根と聳える山の向こうに落ちる夕日。何度もここの窓から眺めた景色を描きたかった。
「君がいなければ、この絵は存在しないし僕は何も残さずこの世を去るところだった。これから君に恩返しをするんだ。だから一緒に行こう」
すぐに外へ出られる距離に座敷はいた。
開けてと言われても絶対窓を開けたくはなかった。
これは僕のエゴだ、否定はしない。
「いいえ、お別れです」
それでも予期はしていた。
いつか別れがくるくらい。
でもあまりにも早過ぎる。
僕は何もしてあげていない。
「どうして、遠慮しないでよ」
僕は腰を上げて座敷に近づいた。
座敷は、細い声でこう言った。
「私は、魔法なんて使えないのです」
僕は違和感を覚える。
初めて会った時と、なんだか様子が違う。
更に僕は座敷に近づく。
ふわふわの毛並みはそのまま、前方の大きな二つの瞳は輝きがある、しかし。マダムの言葉が頭を掠った。
代償は必ずどこかで補うものよ。あなたの知らない内に、どこかでね。
「なあ、目、どうした……?」
僕の声は驚くほど震え、慄然とした。
目の前の現実が夢だったらと、心の中で何度も願った。
座敷の目は、前方の二つ以外、全部白く濁っていた。
最初に会った時の美しさはもう残っていなかった。
あまりにも小さい六つの目の異変に、僕は気づいていなかったのだ。
「ごめんなさい」
座敷は弱々しい声で謝った。
僕は事実を知ってしまった。
出会った日に二つ。僕はもらった目で小説を読んだ。そのあと彼恋人に会いに行った。
次の日にまた二つ。僕はもらった目で自分の住む街を眺めた。その街でマダムと出会った。
次の日にまた二つ。もらった目で僕は同級生に謝罪しに行った。
座敷は、僕が寝静まった隙にこっそりと瞳を受け渡す儀式を行っていたのだ。
毎晩三分間。
その間、僕は呑気にすやすやと寝息を立てていた。
目は、実質一日しか持たなかった。
座敷は僕のために自分に負担をかけていたのだ。
自分を犠牲にして、僕に幸せな時間を与えてくれたのだ。
全身の力が抜け、僕の身体は崩れた。
まるで積み木やジェンガのように、バラバラになっていくようだった。
僕は硬直した両掌を目に押し付けて、悲鳴に等しい泣き声をあげた。
指の隙間から涙が流れていく。座敷からもらった綺麗な目から、溢れ出て止まらない。
この目から何度も涙を流した。これは彼女の涙だ。
永遠なんてなかった。なんの犠牲も払わず手に入れられる幸福なんてなかった。
この世は消耗品だらけだ。
小さな蜘蛛を犠牲にした僕は、やがて何も見えなくなる。
父や母の顔が見られなくなる。
昨日もらった分の目の効果は、あとどのくらい残っているだろう。あと数分したら、また暗闇がやってくるのだろうか。
閉じ切ったまま、潤った目を開けられない。
手で完全に目を覆った。
恐ろしい。
夢なら覚めてくれ。
こんな悪夢はもういらない。
床に頭を叩きつける。
何度も何度も頭をぶつける。
額が割れそうなくらいの激痛が走った。
でもこれは夢だ。夢に違いない。僕は絶対に認めない。
「あなたは、やりたいことをやれば満足をすると言った」
泣き喚いている僕のすぐ近くで座敷の声が聞こえた。
「あと一つ、その後悔がなくなればあなたは生きるのでしょう?」
嫌な予感がした。悪寒が走った僕は、その声から逃げようと後ずさりをした。
「やめてくれ」
「私にできるのは、これだけだから」
「やめてくれ!」
座敷がしようとしていることはわかっていた。
最後の二つの目を僕に譲ろうとしている。
そうなれば、座敷は盲目になり,変わりに僕が見えるようになる。
でもその効果はいつまで続くかわからない。
だったら、残り二つでも座敷が持っていた方がずっといい。
「悩みました。私の全ての目をあなたに差し上げようかどうか。でも、もう決めたのです」
「どうしてそこまでする! そこまで尽くす理由がどこにある?」
「きれいって、言ってくれたから」
絶句した。
その聞き間違えた単語一つで僕はここまで追い込んでしまったのか。いや、聞き間違えたとしてここまでやる奴がどこにいるってい
うのだ。
そんな紛らわしい言葉、出会い頭に言わなければ良かった。
「だったら本当のことを今言ってやる! お前なんて」
ちゃんと言えば良かった。今から本当のことを言ってやる。
「お前は、お前は」
彼女を罵る言葉が一つも浮かばない。止めなければいけない、そうしないと僕は目を奪うことになる。
僕は唇を震わせて、心の底から思うことを言った。
「きれいだ、この世には勿体無いくらい、きれいだ」
嘘など口が裂けても言えなかった。
だって綺麗だと思ってしまったから。穢れを知らない美しい心を持っているから。
「ありがとう」
座敷は初めて会った時のように嬉しそうに笑った。
「きっと、私はあなたに恋をしているのでしょう。この感情が本当にそうなのかわかりませんが。なんせ蜘蛛ですから」
もし人間の女の子だったらどれほど素敵だろう。どうして彼女は蜘蛛に生まれたのだろう。
「この二つは大きいから、もしかしたらずっと使えるかもしれませ
ん」
「やめてくれ、頼むから。君には天敵が多すぎる。外になんか出たらひとたまりもない。盲目になることで、今度はお前が死ぬかもし
れないんだぞ」
「何かを得る代償として、何かを失わなければいけないのは人間だけじゃないのです。私も生きるために巣を張り、捕らえた蝶を殺し
て食べました。そのたび自分という存在を恨みました。醜いものが美しいものを壊すのを見て人は、私達を汚らわしいと言った。可愛
い猫が魚を食べるのを見て人は、微笑んだ。……この違いは何でしょう?」
僕は呼吸をするのがやっとで何も言えなかった。言い返す言葉も見つからなかった。
「あなたに出会うまで、間違えていました。私は姿形が醜い、それならば私は心まで醜くなってしまおうと諦めていました。でも違った。あなたは私をきれいと言ってくれました。嬉しくてたまらなくて。生まれて初めてこんなに幸せになった瞬間はありませんでし
た」
僕等人間だけじゃなかった。苦しんでいたのは、一緒だった。
「ねえ、何も失わずに生きる人なんているのでしょうか? あなたは気づいていない内にたくさん何かを得て、たくさん何かを失って
いるのですよ。目もその内の一つです。目を失った代わりに何かを得たのではないのですか?」
「僕は弱い。きっとお前を失うだけで死んでしまいたくなるほど。弱い」
しゃがれた声で、僕は座敷に本音を伝える。
「知っています。けれどあなたには、やっぱり生きていて欲しいから。私の命をあげることができたのなら、あなたは二度とそんな考
えしないのかもしれない。でもごめんなさい、私はその術を知らないのです。知っていたところでたぶん、その勇気もないのかもしれない」
「そんなつもりで言ったんじゃない! 精一杯生きるから、目が見えなくても前を向いて最後まで生きるから、僕に目をくれることだ
けはやめてくれ、頼むから」
「もう、手遅れなのです。目を開けて」
座敷の、消えそうで、泣きそうな声が聞こえる。
息が止まる。
何も聞こえなくなる。
汗と涙で湿った手の平をゆっくりと顔から離した。
しょぼついた目を、そっと開く。
滲んだ景色の中に、小さな蜘蛛が凛と佇んでいた。
「あ、あぁ……」
座敷の全ての目は輝きを失っていた。
石灰水を濁らせたように、白く、汚れていた。
それでも彼女はきれいだった。
微小なその姿が偉大で、尊いように感じた。
「だから、お別れです。どうか元気で」
冬の空に太陽が昇り、冷たい空気を溶かした。
強い風が吹く、光にくらむ。
目を開けた時、窓は開ききっていて恩人の姿はどこにもなかった。
後を追えなかった。
不思議な力を持つ蜘蛛は、僕に一生消えない悔いを残して消えた。
嗚咽はとめどなく洩れ、僕は何度も謝った。
彼女はこれからどこに行くのだろう。
どうして僕の前に現れたのだろう。
どうして僕を選んでくれたのだろう。
選ばれた僕は運が良かったと言えるのだろうか、本当に?
だったらこのなんともいえない気持ちはどこにぶつけたらいいのだろう。
僕は君にお礼さえできなかった。
謝る相手のいないしんとした部屋で独り、謝り続けた。
部屋の角で、主のいない蜘蛛の巣だけが風に揺らされていた。
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