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珍客
カーテンの隙間から淡く白い光が漏れている。
一筋の光が僕の瞼を刺激し、無理矢理目覚めさせた。
もう明日がきていた。僕は大の字のまま一夜を過ごしたらしい。
いつものように顔を洗って、朝食を食べて一日を始める準備をしなくてはいけない。
薄汚い天井が広がっていた。ずっと眺めていると、自分の目が開いているのか閉じているのか区別がつかない。このまま寝転んでいても、何かを始めても視力は失われていく。窓の方に少し視線を向けた。やけに外が白んでいた。夜中に雪が降って、一面銀世界になっているのだろうか。寒さは感じなかった。もしや身体が冷え込んで感覚が麻痺しているのかもしれない。指先を動かすとピリっとした痛みがあった。
この朝日がもう見られなくなると思い、見納めのつもりで僕は窓越しに空を見ていた。
いや、正確には、窓に張り付き動いている何かを見つめている。目を凝らしてもそれが何なのかはわからない。僕の眼球の中に黒い染みがついているだけなのかもしれない。
その何かとの距離は縮まっていった。向こうからこちらにやってきているのだ。
蜘蛛だ。蜘蛛が一直線に迫ってくる。
蜘蛛は僕の右頬と畳の接触している近くまでやってきていた。虫は苦手だった。普段ならば潰してしまうか払いのける。だが今はそんな気力すらない。
「蜘蛛は、嫌いだ」
なぜかそんな声を漏らしてしまった。それまで近づこうとしていた蜘蛛は動くのをやめた。
後に、この言葉は取り返しのつかない結果を招いてしまうことになる。
少女のような笑い声が聞こえた。単なる僕の妄想かもしれない。悪夢の続きだと重い、一瞬にして全身に鳥肌が立った。
「そんなことを人に言われたのは初めてですよ」
確かにそう声が聞こえた。耳までおかしくなったのか、この部屋には僕と蜘蛛しかいない。
辺りを確認するが、物音どころか人の気配すらしない。
「今、お前がしゃべったのか?」
百人中、いや千人中何人いるだろう。蜘蛛に話しかける奴なんて。蜘蛛は応えるかのように小さな身体をもぞもぞと動かした。
「あなた、私が怖くないのですか? 醜いとは思わないのですか?」
僕は頭もいかれたのかもしれない。声帯も言語能力も持たない生き物がこうやって問いかけてくるのだから。
「怖いもなにも、僕は目がよく見えていないんだ。蜘蛛で間違いないのか、ゴキブリじゃないよな?」
返答する僕も僕だが、これが例え妄想であっても夢であっても虚無感を紛らわすにはちょうど良かった。
「でも、さっき『蜘蛛はきれいだ』って言ってくれた」
どうやら蜘蛛は僕の発言を聞き違いしているらしかった。すぐに誤解を解こうと口を開いたのだが、あまりにも蜘蛛が嬉しそうに明るい声をあげるので何も言わず黙った。蜘蛛にも人と同じ感情があるとは驚いた。私と自称しているところから、きっとこいつは雌なのだろう。声も少女のようだった。
人は絶望に陥ると気が触れると聞くが、僕に動物と話せる力が授かって少しでも安寧が得られるならそれは好都合だった。例え妄想でもあの悪夢を見続けるよりはましだ。
信じられないことに彼女との会話は弾む。彼女はネコハエトリグモという種類らしく、昔はほんち遊びというのが流行したという。自分達はふわふわした毛並みが特徴なのだと彼女は得意げに言った。
昔は自分達を可愛がってくれる人間もたくさんいたというが、現代の人間は殺虫剤やハエ叩きで仲間を殺してしまう。彼女は溜息交じりで教えてくれた。そんな酷な話を聞いても僕には何の感慨も浮かぶことはなかった。
彼女はうろうろし始めた。僕の顔をまじまじと観察しているような視線を感じる。
「目が、良くないのですか?」
「そうだよ。お前の目はいくつあるの?」
「八つあるのですよ」
「へぇ……いっぱいあるんだな。昔図鑑で見たことがある。蜘蛛って案外ビー玉みたいな目をしているんだよな」
それだけたくさんあれば一つ使えなくなっても問題なさそうだ。こんなに小さな存在が今は凄く羨ましく思う。
「あなたは他の人間と違って草花のようにじっとしているのですね」
そう言われて気づいたら十二時を知らせる鐘が街中に響いた。昨日の朝に一口だけ食パンを食べたきりだ。空腹を通り越したのか、胃袋は何も感じなかった。全神経が視神経に集中しているせいだろう。
「植物になれるものならなりたいさ。このままずっとこうしていれば楽だろう」
「どうしてですか?」
「こうやって終わりを迎えるのを待つのみだ」
「どうしてですか?」
また同じ質問をしてくる。
「生きているのが疲れたからだよ」
「どうしてですか?」
もうすぐ光を失う、その事実は誰にも言いたくなかった。口にしてしまうことで自分自身がそれを認めてしまう意味になるからだ。僕はまだ受け入れられたくなかった。
「……目が悪いから」
「どうしてですか?」
「……ろくなものを映さないんだ」
繰り返すこの質問に、正直鬱陶しさを感じた。蜘蛛には悪いと思ったが、僕は目を瞑って無視をした。どうして? そんなこと訊かれても僕にはわからない。
ひょっとしたら今までの行いが悪かったから罰が当たったのかもしれない。あの日米粒を残したせいか、ゴミの分別をさぼったことがあるせいか。
迷惑をかけた両親への謝罪や恩返しがまだだからか。ずいぶん連絡を取っていない。夢の中の母に顔がなかったのは、恐らく今現在の顔を知らないせいだ。きっと背も低くなってしわも増えているだろう。
別れた恋人、たった一人の女性を幸せにしてやれなかった。
辞めた職場の、仕事の要領や人間関係が良くなかった。
数えたらきりがないほどの苦悩と後悔。誰にも謝罪できないまま、このボロアパートで生涯を終えるのだ。朽ち果てても成仏はできない気がする。未練だらけで地縛霊になりそうだ。
「自己嫌悪に陥って死んだ人間がいたって、仲間に話してやれよ。図体ばかりでかくてもお前よりも弱っちいんだよ」
仲間を無残に殺した人間が憎くてたまらないに決まっている。僕が餓死する前に、お前達全員で僕に恨みを込めて噛み殺したっていい。
無茶苦茶を言うようだけど、それほど僕は自暴自棄になっていた。
「目がちゃんとしたものを映すようになれば、あなたは生きるのですか?」
ちゃんとしたものがどんなものかははっきりとしていないが、僕は小さく頷いた。
「ああ、見えることに超したことはないよ。そうだな、せめてやりたいことがやれたら、あとは満足かな」
僕には夢がある。
人生最後の瞬間、朦朧とした意識の中で最愛な人の顔を見て安らかに眠ること。それで僕は生まれてきて良かったと心から思えるはずなのだ。しかし、現時点でそれが叶わないことはわかっていた。目が見える、見えない以前に最愛な人が近くにいない。
蜘蛛は黙り込んだ。静かに去って行ったのかもしれない。
僕は目を瞑り続ける。
次に、耳元で囁かれた言葉で再び僕は目を開けることになる。
「それなら、私の目を分けてあげましょう」
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