文月

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「たく……や? 拓也! 拓也!」 俺の名を呼ぶ声に導かれるように瞼を開くと、憔悴しきった様子の母が顔があった。 暫く俺の顔を凝視していた母だが覚醒が願望の見せる夢ではないと分かったのか、よろけながら椅子から立ち上がり、担当医を呼びいくと告げて病室を出ていく。 母に祈るように握られていた手を顔の前に持ってきて、グーチョキパーと動かしてみる。 意思通りに動く様を確認したあと、広げた掌を頬に当ててみると体温を感じた。 「生きてる……」 ふぅっと安堵の息を吐きながら横を見ると、半透明のあの男が微笑んで俺を見下ろしていた。 「おはようございます。僕との約束、覚えていますよね?」 さっきまでの出来事は夢ではなかったのか……。 ガラスの向こうの小さな青い花、オオイヌノフグリの野原を眺めながらした男と会話を思い返す。 その男、燕尾服を着た幽霊は、自分の記憶がないそうだ。 見えない壁に阻まれて、小川の向こう側――あの世にどうしても行けないらしい。 この世に何らかの未練がある為にあの世にいけないのだと考えているが、如何せん自分が誰だかすら分からない。 唯一覚えているのは死ぬ間際の光景で、洋館の階段を転がり落ちていく自分を、ドレスを着た女が呆然と見つめているというものだそうだ。 俺を生き返らせる対価に男が望んだのは、自分の正体を調べて欲しいというものだった。
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