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美術館を出たのは正午だった。
空腹を覚えたあなたは坂道を下って馴染みのレストランへ向かう。まだ開店時間には早かったが、頼んで入れてもらった。
「仕事を辞めてからずっとその調子だね。昼間だというのに栓を抜く」
パスタを茹でながら店主が言う。すこし迷ったものの、結局開けた白ワインの瓶を目の前に置いて、あなたは苦笑いした。開店前の店内に点在する五つの卓は無人で、カウンター席に腰掛けているあなたが唯一の客である。
「芳い香りだ」
「そうかい」
「さっき天使展に行って来たよ」
あなたはグラスを置き、紙入れから特別展の半券を出して見せた。
「でも期待したほどではなかった」
「ほう。友達はよかったと言っていたんだが」
「いや画の評価はさておき、私のイメージする天使像と展示物とが食い違っただけのことだ。店主、あんたは天使を見たと言ったね」
「ああ。見たよ」
こともなげに言う。
「画学生の頃にね。留学先の画材屋で天使を見た。……おまちどうさま」
「ありがとう。それでその話、委しく話してみないか」
「だって正午だよ。これから混み始めるというのに」
「本当の開店時間はまだ先だろう」
「それもそうだが。では話すが、しかし皆が冗談話だと決めつけるのに、君はすこし妙だね。仕事を辞めたとも言うし、何かあったのか」
「それより天使だ」
「うん」
店主はカウンターの向こうから出てきて、あなたの隣に腰掛ける。
「もう十数年も前の話になる。青の絵具が無かったんだ」
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