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「ふむ」
「それがその画材屋を訪れた理由だった。小さな店で――小奇麗な店内で目当ての絵具はすぐに見つかった。だが買い求めたくても店主がいない。私は店主を呼んだよ。誰も出てこない。それなら机に代金を置いて帰ればよかったのに、私は階段を上がった。というのも、上階に人の気配がしていたからね。上階には二室あり、奥の方で風の吹く音がした。窓が開いているのだろう。なんとなくそこを覗くと天使がいた」
店主は遠い目をして話を続ける。
「それは天使だったよ。すぐにそれと知れた。なぜだろうね。室の真ん中に静止しているそれは生きているわけでも死んでいるわけでもなかった。私は奇妙に落ち着いていて、ああ天使がいるなと思った。それから待っても一向に店主が現れないのに痺れを切らして、代金を置いて店を出た。こわくなったのはその夜、ベッドに入ってからさ。どうして画材屋の二階に天使がいたのだろうと今さら不思議になったわけじゃない。天使を見た自分自身がこわかったんだ」
「それでどうした」
「天使の画を描いて名声を得たとでもすれば、ちょっとした奇談だが、現実はそうではない。その後、自分に画才の無いのを悟って帰国した。それで料理人になって、自分の店を持つようになり、今そのことを君に話しているというわけさ。生憎、事の顛末みたいなものはないが――ただ時々こわくなるね。誰もいない静かな場所で一人きりでいると、あの天使のことを思い出すよ。あれは今でも鮮明に覚えている。それを見た自分自身のことも」
「不思議な話だ」
「信じるのか」
「たぶんね。世界には不思議なことが数多くあるのだろう。あるはずのものが無かったり、ないはずのものが在ったりして」
「変なことを言う。君は別人のようだ」
別人と聞いて、あなたは店主の顔をまとも見た。――別人? ふと以前の職場を思い出して嫌な気持がした。
「いま別人と言ったね」
「言ったよ」
「私は以前と何か違うか。顔や声が変わっていたりするだろうか」
「いやそういう意味じゃないよ。ただ変なことを言うからさ。以前の君は天使を見たなどという話は一笑に付していたじゃないか。それなのに妙だと思って、別人と言っただけだ。そんなに周章えて一体どうした」
「なんでもない。ちょっと疲れているんだ」
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