第2部

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     再び口をつけた白ワインは味気なかった。早々に食事を済ませて、何ということなしに窓の外を眺めていると、やがて開店時間になって客が大勢やってきた。挨拶も程々にして店を出る。 「ごちそうさま」 「また来てくれ」 「ありがとう」  店の前で煙草を取り出そうとすると、かちりと音がした。あなたの外套のポケットには鍵が入っている。仕事を辞めてから、新しく借りた部屋の鍵だ。この鍵によって入室できる部屋はまるで屋根裏部屋のように狭いのだが、見晴らしはよく、とても気に入っている。  あなたは辞職してすぐに引っ越し、その狭い貸部屋で様々な活動を目論みた。そして悉く挫折した。まず初めにやったのが執筆で、19章から成る長篇小説の草稿を書き上げたが、しかし結局それは破棄してしまった。あるいは楽器を始めてみたり、標本や切手の蒐集を始めてみたりもしたが、どれも長続きしなかった。自叙伝の構想を膨らませ、遺書の作成に着手したこともある。それらも失敗に終わっている。自画像に凝ったこともあったけれど、室内に自分の顔が殖えていくのはおそろしいから、すぐにやめた。今は図書館に通って伝記と史書を読み耽り、気が向けば美術展に足を運ぶ毎日を送っていた。  再就職を世話しようという知己は少なからずいた。けれどもそれは断って、ずっと部屋に篭っている。あなたは日記をつけるようになった。自分が昨日と違っていないか不安でならないから、日記にはその日の行動のみならず思考内容まで逐一記録している。自分の影がこわい。夢を見なくなった。いずれ旅に出ようと思っている。またかちりと鍵が鳴った。    
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