第2部

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     街を歩いている人々の顔に、大きな穴が空いているように見え始めたのがどういうわけなのか知らない。顔が多すぎる。どれがどれだか判別できない。何もかもよそよそしく感じられた。郵便配達夫、銀行員、裁判官、建築家、車掌、書店員、学者、学芸員、気象予報士、……すべての顔に虚無がある。あなたは不安を感じる。何も他人の顔だけじゃない、市街のどこかには大きな虚無が口を開けていて、いずれ自分はそこへ呑み込まれてしまうのではないか。鏡がおそろしい。隣室の男が「俺の隣には偏執狂が棲んでいる」と言っているのを立ち聞きしたことがある。隣人にも顔が無い。 「天使か」  路面電車を待ちながら、あなたは考えた。  ――あの店主が天使を見たとして、それがどうして有り得ないなどと言えるだろうか。彼がそうだと言うのなら、結局のところそうなるしかない。少なくとも彼にとっては。……いや天使がこわいのじゃない。彼も言っていたじゃないか。天使を見た自分がこわいんだ。天使に限らず、そういうもの、自分の生活する領域に『そういうもの』が闖入してくるのがおそろしいのだ。そうして、その闖入を許してしまった自分が、何よりもこわい。  不可能の闖入――もっとも恐れるべき闖入者が自分自身であることは断言してもいいだろう。あなたは貸部屋に暮らしながらそのことを第一に憂慮している。扉を叩く音がして、その向こうにあなた自身が立っていたら。もし自分自身から電話がかかってきたら。もし自分自身から手紙が届いたら。そのときは自分の顔にも虚無が現れるかもしれない。やがて足元に大きな虚無が開いてそこへ呑み込まれてしまう。    
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