第1話

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イタリア・ミラノは夏の初めをむかえていた。 爽やかな風の吹く日曜日の午後、絵画修復の工房を後にした私は、また、スフォルツェスコ城にやってきていた。 15世紀、ルネサンスの名君主スフォルツァ家がヴィスコンティ家の城跡を改築したというこの城は、私のお気に入りの場所だ。 お城の中には博物館もあり、私には有難いことになんと無料だ。 レンガ積みの城壁をくぐり、広大な庭園を抜けて空堀の橋のたもとに陣取り、スケッチブックを広げた。 空堀の下には今も大砲の玉がうず高く積まれていて、ここで昔戦いがあったという名残りを微かに感じる。ぼんやりとそれを見ながら何を描こうかなあと考えていた。 アルバイト先のトラットリア・アルカーデの入口の脇に飾らせてもらっている私の絵は、もうここひと月ほど変わっていない。 そろそろオーナーであるラーラに文句を言われそうなので、今日こそはラフ・スケッチでも仕上げて行かなければと思っていた。 学校の課題を仕上げるのに忙しくて、とごまかしていたけど、最近なかなか「描きたいもの」に巡りあえていなかった。 どうにか何枚かの風景や子供たちのスケッチを済ませ、ふと庭園にかかる橋の方に目をやると、1人の男性が手すりに寄りかかっているのが見えた。 その横顔の美しさに一瞬息を飲んだ私は、次の瞬間、彼の姿を描き始めていた。すらりとした長身に黒い髪。物憂げに煙草をくゆらすそのひとは、何故かすこし悲しそうに見えた。 日本人だろうか・・・・。 こちらに来て思ったことだけど、私たちみたいなアジア系の人間は骨格の作りが華奢だ。 挨拶するみたいに誘いをかけてくる男の子たちにも、『ナギは小さくて可愛い』と良く言われた。 見慣れてないだけだと思うけど。と思いながらその誘いをかわすのにも、もう慣れた。 ミラノに来てもう2年。私は昼間は学校に行き、夜はアルカーデでバイト。日曜日やたまのお休みには、教会の絵画修復の工房通いという日々を続けていた。 城壁の陰に隠れて夢中で彼を描いていると、ピリピリと小さな電子音が聞こえて、彼がポケットから携帯電話を取り出すのが見えた。 そのまま小さな声で話しながら彼はこちらに向きを変え、歩いてくる。 慌てて背中を向けて壁に隠れた私の後ろを通りすぎながら、彼が、「・・・・関係ないだろ・・・・お前に」と言ったのが聞こえた。 その低くてどこか冷たい声は、この優しい日曜の午後にひどく不似合いな気がした。
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