スフィアローゼ

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「堅物で、真面目そうで。オキテのひとつも破れない感じの男」 「3つしかないこの国の掟だったら、破る方が難しいな」 ナサニエルはふっと笑った。 「あなたはもう破ってる」 「そうだっけ?」 笑顔で首をかしげながら、自分の胸にもたれた王妃の顔を覗き込む。 「3つめ、『王家の宝に触れるべからず』」 王妃が指を口元に当てる動作をすると、ナサニエルは声を立てて笑った。 「その通りだ」 まぶたにキスを落とし、抱きしめる。 王妃はその腕に抱かれたまま、壁の絵を指差した。 「ねぇ、あそこに行かない?」 黄金の額縁に入った、あの肖像画だ。美女が横たわるのは、豪奢な天蓋付きのベッド。勿論薔薇の模様入り。 ナサニエルはうなると、心底残念そうな顔を浮かべて言った。 「今日は無理だな、仕事が立て込んでる」 あら、と王妃は言って、不服そうに口を尖らせる。 「いつも暇そうなのに?」 「偉大なる神々の現存を証明するための、本を書く崇高な仕事だからね」 そう言うと膝を付き、美女の手の甲に唇を落とす。翡翠の瞳が彼女を貫いた。 うっとりと微笑むと、屈んで耳元で囁く。 「私を女神にするために?」 「世界的ベストセラーになればね」 二人は顔を見合わせてまたくすくす笑った。 「ここに居ると故郷を思い出すよ」 ナサニエルは王妃の黒髪に頭をうずめながら、窓枠に精巧に掘られた薔薇の模様をなぞる。 「貴婦人のための花だ」 動作の延長で本の上に置いた眼鏡を取り、かけ直した。別れのキスは濃厚だった。 メガネの奥で翡翠の瞳が冷たく光った。実際、熱帯のこの国では本物は一本もなく、女が全身に振りまいたきつい香水からも、故郷の庭園を思い描くことはできなかった。 薔薇。貴婦人のための花。 少なくとも、あばずれ女のための物ではない。
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